世界は称賛に値する

日記を書きます

千切る北極星3/25土

文章を巻き戻す

文章を書くときに、趣味や知識の近い相手を読み手だと想定するのと、文脈がまったく異なる相手を読み手として想定するのでは、言葉の選びかたや運びかたが大きく変わるだろうなと思った。とはいえどちらがよいということでもないか~、とも思った。

好みも生きかたも噛み合う相手に話しかけるケースのほうが、勝手気まま、思うがままに言いたいことを言えるだろうから、結果、ブレーキがかからず思考が加速しそうだよな~、そのおかげで文章もよいものになるんじゃないかな~、というふうに最初は考えていたのだけど、むしろよく知らない相手に話そうとしたときにこそ出てくる「しっかりと話さないと伝わらないぞ」という脅迫観念が、整理をうながし、そこからむしろ新たな着想を生じさせることもあるんじゃないの、とも思えてきたので、結果として、どちらがよいということでもなさそう、というところに落ち着いていった形だ。

文章を修正していく流れの話になるけれど、二文目の「とはいえどちらがよいということでもないか~、とも思った」っていうところ、最初は「できるだけ軋轢のない気持ちで書いたほうが速さも広さも期待できそうなので、趣味の合う相手を読み手として想定したほうがよさそうだ~」的な意味の文を置いていた。思考を進めていくうちに、どちらがよいということでもなさそう、というほうへ気分が傾いていったので、遡及的に、二文目を、「どちらがよいとも言い切れない」に書きなおした次第だ。

考えを進めるうちに気分が変わり、巻き戻す形で、全体のトーンを整えなおす。こういう「行きつ戻りつ」を繰り返すことで、思考ないし記述って行なわれているよな~、と、あらためて認識した話かな。思考や言葉の順序ってウソくさいよな~ということも思った(再構成したのち、自分でも、どういう順番の思考・文章だったか忘れることもあるし)

ギリギリの説明量調整

もともとの着想は、専門用語や固有名詞を書くときってどれくらいしっかり説明するのがよいんだろうな~、という疑問から得たものだった。変に説明しすぎないほうがよいという認識は昔からかなりある。削れるだけ削ったほうが意味もテンポも音もよくなる印象である。ギリギリの塩加減が極めて美味しいからねって感じだ。説明が足りてなくてまったくわからん……、ってなる文章も好きじゃないので、美味しくなくなるところまで削ってしまわないよう気をつけたくもあるけれど。