世界は称賛に値する

日記を書きます

ふざけんな、自殺なんて絶対駄目だ、という一喝

▼たとえば大切な人に自殺されて悲しみに暮れていたりしたら、人間には自殺する自由があるはずだ、みたいな議論に対して、ふざけんな、と思ってしまうんじゃないかなあ、ということはわりと簡単に想像できる。逆に、大切な人に自殺されて悲しみに暮れている人が、人間には自殺する自由があるはずだ的な議論に対して、ふざけんな、なんて言いたくなってしまう気持ちも、理解できるように思う、し、納得できるように思う。▼が、文句を言ったところで、人間には自殺する自由があるはずだ、という議論を無化できるわけではないし、実際に自殺を抑制することができるわけでもない。むしろ、人間には自殺する自由があるはずだ、という議論を、きちんと突き詰めることのほうが、まだ、自殺を抑制する効果、を持ちうるのではないか、とさえ思える。▼理屈をこねるよりは感情に訴えかけたほうが効くもんだ、という判断を所持している人が時おりいて、実を言うと、わりと妥当なものではないか、と感じられたりすることも、少なからずある。だから、人間には自殺する自由がある、だなんてくだらない話を続けるより、ふざけんな、と一喝してやるほうが、自殺を抑制する効果があるんだ、という意見に、賛意を覚えることも、実際のところ、ないわけではない。にもかかわらず、一喝するよりは議論を進めたほうがいい、と考えてしまうのは、一喝していくだけでは範囲が狭すぎるんじゃないか、と考えているから、だったりする。簡単に言えば、逐一問題を解決していくには世界は広すぎるんじゃないか、とどうしても考えてしまうのだ。確かに一喝し感情に訴えれば、目の前の議論を止め、目の前の人間の考えや気持ちを変え、目の前の自殺を食い止めることさえ、できるかもしれない。できるかもしれないが、しかし、いずこかで行われている議論は止められないし、見知らぬ人間の思考は変えられないし、どこかで自殺しようとしている人を食い止めることは、できないだろう、と思うのである。▼ならば、議論ならそれができる、と私は考えているのだろうか。たぶん考えているのだろう、と思った。目の前の問題に対して逐一対処していくつもりならば、感情的な一喝でかまわない。けれど、普遍的な説得を目指そうとするなら、議論を進めるしかない、というようなことを考えているのだ。あまりまとまってない思考だなあ、と思える。もう少し突き詰めてみよう、と思った。