世界は称賛に値する

日記を書きます

数字所有権と発想距離感

▼▼宇宙の星の所有権を買えますよー、的な雰囲気で、数字の所有者になれる、ってなったら、どの数字が欲しいだろうなー、って考えたりしていて、一桁の数字を持って、その数字が含まれていたら(描かれていたら)ぜんぶぼくのである(1の所有者なんだから431のうちの三分の一はぼくのものって言ってもよいんじゃないかなー)、って思ってしまうのと、おおきな数字を一つ、心に決めて貰う、のでは、雰囲気が変わる気がするし、意味のある数字(何かを想像、連想、比喩的に思い出せる数字)を貰うのと、無機質というか無感動で無感情な数字をあえて認識してみせるのは、まあまあ違いそうだし、でもって、数字を「順番」「何番目のもの」として見做すのと、数字を「個数」「物質的にその数がある風景」として見做すのでは、また異なるだろうな、って気もして、まあ、いずれにせよ、数字を一つ貰える、って切り口、けっこう好きだなー、と自画自賛的に思った。

▼▼うーん、じぶんの発想に向けて、素敵だ、と思うのは、自画自賛なのかな? というのも不意に思った。あんまり自画自賛であると思えていないせいだ。頭の中からごろんと飛び出してきたやつって「じぶんのもの」という感覚が、薄めなのだよなー。まあでも、誰かに褒められたりしたら、途端に「これぼくのだよー」って思い始めるところもある気がするので、若干、狡かったりも、しそうかな。いやでも貶されても「ぼくのだ」って感覚は出てくるか……。褒められた時だけ「ぼくのものである」と主張し始める狡さとは違う。なんというか、言及されると、客観感みたいなものがそばによってきて、そういう客観感を覚えると、あーやっぱりこれじぶんのか、って思い始める、みたいな機構なのかなあ。うーん、どうだろう。たぶん違うなあ……(違うんかい)。あ、じゃああれかな。じぶんの発想、思いついたこと、を、じぶんとは少し遠いところにある、として見つめてるの、なんとなく、単に、気持ちよいのだ。一人でいる時はわりとその気持ちよさに浸ったりしている趣味がある。夕暮れを眺めて黄昏れるみたいに、発想をぼんやり見つめて、距離を置いて、情緒に浸っている。ただ、誰かと接する時にまでそれをやるのは、流石にやりすぎなので、ちゃんとじぶんのものとして扱う、的な挙動では、って思った。