いくつもの解釈をまぜこんで、ニュートラルに寄せる
ぱっと見で、あるいは、うがった目で見つめれば、"悪く解釈することが妥当そう"な事柄であっても、別に、そうしなければならないわけではない。よい解釈の可能性だって、できるだけ残したい。少なくとも、見逃さないようにはしておきたい。両者をあえて衝突させて、中和させたいくらいの気持ちかな。
なんというか、ヘンにどちらかに逃げこむのではなく、都合よく決めつけるのでもなく、ニュートラルな形で、判断したい。とはいえそこに、なんとなく、楽天的な観点を混ぜこんでしまうことも、なくはない。性分や癖ではあるんだろう。余分な前向きさを混ぜこんでしまいながら、事にあたっていることは、たしかにある。
どういう解釈が優先されるべきかはわからない
それが、「予断をもって事にあたる」事態になっていることも、たぶんある。辻褄合わせや補完処理が勝手に発動して、「楽天的」に捉えやすいよう、無意識に作り替えていることがある。ビジネスまわりだと、じゃっかん困る。楽観視がいきすぎて、デメリットやリスクの発見率を下げているケースがあるからだ。話を鵜呑みにしたせいで、証拠や証言を集めるべき範囲に、うまくチューニングできなかったケースもあった。
たとえば、ごまかし・ちょろまかし・詐欺・虚偽が横行するような、リスク満載の状況の中では、楽天的な予断をもってうろうろするだけでも、自殺行為にはなるんだろう。そういったシチュエーションだって当然ある。こういう場合は、「悪く解釈する」ほうの優先順位を高める意味も増す。こんなの不要だ、苦手だ、と、手放そうとするのは、むろんやりすぎにしても、中和させよう、平衡させよう、といった折衷案ですら、甘っちょろい可能性はある。
ただ、人生総体でいうなら、「よく解釈する」「なんとなくよいほうに物事をとらえてしまう」癖は、意外と役立つ印象もあるんだよな~。どちらかといえば幸せのほうに向かって物事を運んでくれる感じもなくはない。
楽観と悲観の行き来(無茶ぶり)
ともあれ場面場面で都合よく使い分けられるとも限らない。やっぱり、あつかいが難しいんだろうな〜、とは考えていた。仕事的シチュエーションと人生的シチュエーション、いずれが重要かと質問されたら、そりゃ「人生」のほうが目に向くけれど、実際は、そんな単純な話でもない。こういうあいまいな距離感の中で、都度、適切な調整をくわえながら、バランスをとっていくのは、きわめて難しい。楽観と悲観の配分・相互作用・行き来が大切なんだ、と、ことばで言ってみせるは簡単でも、当然、実践はそんなに簡単ではない。