世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年11月17日(日)話の持っていきかた

人生の受け止めかたに遠慮はいらない

なんの変哲もないごくフツーの出来事や気持ちであっても、話の持っていきかたで、つまり表現方法によって、濃密な面白味を持たせることができる。どういう言葉を使って、日記に残すか。それによって、日記としての質だって変わる。少なくとも、自分の中での満足度は変わってくる。おもしろいものが書けた、と思えるかどうかが変わる。

というのは間違いないにしても、日記としての質を高めるために、実際にあった出来事や気持ちを、わざわざ変形させる、というか、都合に合わせるようにして、「美しく見える角度・深度」を探そうとする行為、よいことばかりでもないんだろう、とは思った。迂遠だし傲慢だ、くらいの印象もなくはない。変形させてしまってよい、と素直に思ってしまってよいのか、不安になる。そんな意志を平然と運用し続けてしまって、人格や世界観がゆがんだりしないのかな、とか。

ただ、逆に、特殊だろうと凡庸だろうととにかく起こったことを受けとめて、どう胸の裡に納めるかが、そもそも人間の生きかたのキモなんだから、どんどんやっちゃえばよいんだよ、と感じるところもなくはない。最重要問題である「人生の受けとめかた」において、遠慮なんかしてる場合かよ、みたいな。

動きがあったほうがよい

日記は動きがあったほうがおもしろくなるのかな。行動や生活の記録はシンプルに「動き」の記録って感じになって楽しい。分析や検証をしている日記もそこでなされている「動き」が楽しい。こういうことがしたい(したかった)、という日記だと、あんまりおもしろくな気がしたので、その理由は「動きが少ないから」なのかな~、って考えていた。頭の中の、動きのない計画や目的ばっかり、開陳されてもつまらん、みたいなノリはある気がする。