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日記を書きます

2023年11月16日(木)欺瞞を避ける

無理して前向きにしない

「なんとなく無理してねじ曲げている」「ごまかすための言葉を重ねている」「聞こえのよい言葉で自分自身を騙そうとしている」というような空気のある文章には、ときどき出会う。当人が気づいていないように見えることも多い。自己欺瞞の言葉というのはその当人に特によくない効果をあたえるものなんじゃないかと考えているところがあるため、気にはなる。ひるがえって、自分自身の文章を読み返しながら、そういった要素・構造がないか、心配になったりもしている。

たとえば不快感の話を出したときに、ところどころで、「まあよしとする」「ここは自戒したい」「今後注意しよう」みたいな言い回しを継ぎ足してしまうことが多い。これらが"そういうことば"に見えていないか、心配にはなる。言うなれば、「無理」「ごまかし」「おためごかし」「欺瞞」「自己正当化」などに見えていないかを気にしてしまう。そして、もしそういうふうに見えていたならば、そういうつもりじゃなかったんだ、と釈明しておきたい。

ただし区別は難しい。「無理や欺瞞の言葉なんかじゃない」⇒「だからもしそう見えているなら心外だ」⇒「釈明の機会を設けてほしい」なんて、いくら強く思っていたとしても、実際そうとは限らないからだ。しっかり検証してみたら、やっぱり無理・欺瞞だったんじゃん、って判定結果が出ることはありうる。主観からだけじゃあ完全な回答は示せない。むろん逆に、はたから見たら無理・欺瞞に見えていたけど、確認してみたらそういうつもりの言葉じゃなかった、ってことだってあるんだろう。釈明した言葉がちゃんと正しいこともあるに違いない。

ねじ曲げているような前向きの言葉が"単なる注釈"であることもよくあるしなって思った。ダメダメな物事であっても部分部分にはよいところがあったりする。もしそういうものが見つけられているなら、まあそれくらいは前向きに語っておきたくなるというか。褒めるべきところがあるならそれはそれでちゃんと褒めておきたくなるというか。そんなような趣味はあって、結果、文章に、褒め言葉を混ぜがちではあるのだった。けれどそんな混合させた断片的な賛美が、無理・欺瞞に見えていたりしたら、それは困る、って思う。このあたりの調整はほんとうに難しい。