世界は称賛に値する

日記を書きます

20230811 記憶の話

金曜日、山の日

国民の祝日のうち山の日だった。祝日に対する興味は薄くてところどころしか記憶できていないなと思う。「祝日ってなんなの?」とはあらためて考えた。1948年に祝日法によって定められた休みで、宗教的な「祭日」を下地にして作られたようだ。祝祭日という言いかたはその名残。当初は年間9日間だったが要所要所で増えて現在は16日間になっている。ものごころついたときに「みどりの日」が出来て、少し馴染みがあったので、いつの間にか消えていて淋しさはあった(いまは昭和の日になっている)。海の日と山の日は、なんか、切り取りかたが独特だなとも思った。むしろセンスがよい気もする。

思い出せないフィーリング

祝日が9日間だけだった時代があるんだな。想像しづらい。みどりの日が出来る前のこともほぼ記憶にない。週休二日制になる前のこともあんまり憶えていない。具体的な風景もそうだけど肌触りとか手触りが思い出せないなと思う。日々のフィーリングがどんなものだったか遡れない。幸福観や死生観にも直結するであろうこの手の「時代感覚」が消失していくのは損だと感じるけれど、だからといって、明瞭に残す術もなさそうなんだよな〜。写真や映像の進化によって残しやすくなったりデジタルの時代になったことで変わったりするところもあるんだろうか。

なんにせよ、文学や歴史学がこのあたりを残そうとしてはいる、という認識だ。が、限界もあるだろう。そもそもそんなこと言い出したらどんなところの暗黙知も残せてきていないじゃん、とも思った。文学や歴史学を含めた「人文学」「人文知」ってそのあたりをかなり頑張っているほうなのかもしれない(いや、そのあたりにアプローチする手法や頭脳が人文学や人文知と呼ばれる、のか)

夏場の夜中に、自転車をこいでアルバイト先から家に帰るときの、裏道の、気だるさと、暑さと、静かさと、寂しさと、そういうものが入り混じった繊細な感覚を、やはりそのまんまは残せない。記録も再現も困難だ。個人や主観にも依存する。あえてそこに抗う意志(消さないようにする意志)がたとえば文学という概念を構成する要素のひとつなんだろう、とは思った次第だ。

三連休の初日

三連休初日の金曜日。台風7号ランが南東から接近している。直撃するかはあやしいが買い物などに支障が出るのは困る。事前に対策はしておこうとは考えた一日だった。コンビニエンスストアに行く案もあったが主に暑さで諦めた。