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日記を書きます

2023年10月24日(火)みっちり詰まった日と、考え抜いたか聞きかじりかの違い

火曜日

業務の密度が濃い一日だった。昨日の月曜日と似た日ではあった。情報のやりとりがまず多かった。記録すべき、精査すべき、共有すべき、情報が、いずれも増えてきている。まあなんだかんだ楽しんではいる。しかし息切れする瞬間もあったかな。頭脳が鈍化していく空気を感じた。前より運動習慣が減って、身体的な体力が落ちているのを気にしている昨今だというのに(遅刻しそうだと思って軽く走っただけで動きづらくて驚いた)、頭脳的な体力まで落ちていたら、悲しい。連動していそうなふたつでもあるけれど。ともかくなんにせよ、詰め詰めで業務を進めた火曜日だった。とはいえ、隙間もなくはなかったと思う。意識して作ったというほどではないが休んでいる時間もあった。最終的には、もう限界だ~、って思ってサボるように手を抜いていた。省みると、あそこまで休んでよかったのかなとも思う。ただ、あれくらい休むべきだった、むしろ、あれでも休みが足りていないくらいだったのでは、という印象もある。このあたりの調整は異様に難しい。

考え抜いたか、聞きかじりか

「考え抜いたこと」と「聞きかじったこと」が感じさせる"違い"に気づくことはある。おのれの脳内や胸中に蠢くものなら多少はその"違い"もうかがえるかな。とはいえ判別は難しい。具体的な線引きもできない。ただ、誰かが話しているとしても(予断や勘違いの可能性はじゅうぶんあるにせよ)、なんか違うぞ、と感じる瞬間があるなあとは思うのだった。密度が違うとか言ってよいなだろうか。叩いたときの音が違うみたいなイメージではある。野菜みたいな話になるが。

なんというか、たぶん、話す際のわかってもらえるよう気遣うときの間合い、そして、質問されたようなときの反応の早さや響きが、変わる。態度が変わる。言葉選びも変わる。みっちり詰まった理解を持つひとがよく使う言葉づかい、浅くて薄くて粗い理解しか持っていないひとがよく使う言葉づかい、というのがある印象でもある。

考え抜いているのであれば許容するし、むしろ尊敬もする。聞きかじったことを言っているだけなら容赦したくないし、嫌いだ、といった事態がときどきあるため、そこにある構造について考えていた。たとえば、「論理的には断言しきれないようなことを断言してみせる振る舞いを見たとき」にも、関連したようなことを思う。どこかで聞いたような社会通念とか一般常識みたいな論理をドヤ顔で語る断言と、試行錯誤や覚悟や美意識から出てきたおのれにとっての正しさを懸けたあえての断言を、見比べて、前者は嫌いだし後者は好きだ、って感じたりする。この違いって、でも、ぼくにとって、「考え抜いている」と感じられるか、「聞きかじっただけ」と感じられるか、の違いでしかないんだろう、とはまず考えた。