世界は称賛に値する

日記を書きます

率を測りたがる12月21日水曜日

敬遠する人格

例えば、嫉妬深いところがぼくのいいところです、とは言いづらい。いいところだとまではいかなくても、ぼくは嫉妬深いです、くらいでもやはり言いづらい。もうすこし別の言い回しないものかな?とは考えてしまう。嫉妬深さが"害"に繋がりやすいイメージは強いからだ。根拠になりそうな人づての情報もたくさんあるし、個人的な理屈も経験もある。この世にある嫉妬深さがすべて必ず害悪に繋がるわけでもなく、素晴らしくよい結果に繋がることだってもちろんあるのだろうけど、基本的にはよくないものかな〜、って気持ちで眺めることにはなる。例としてここでは「嫉妬深さ」を出してみたけど、情けないとか弱いとか、独善的とか攻撃的とか、「確率的に言えば"害"として現出しやすいイメージ」で避けられがちな人格って多々ある。自分の中にあるとわかっていても人前で堂々とは出しにくいやつだ。確率的にはよくないかもしれないものを持っていますと(ケースバイケースですからという厳密な事実を支えに)わざわざ言うのか?と思わされるやつだ。

行動からの敬遠

そしてまた、こういう行動が好きなんです、こういうふうに振る舞うのが趣味です、って言ったときに、その背後に、「確率的にはよくない形で現出するかもしれない人格」を読み取られることもありうるんだよなー、ってことについてもときどき気にしている。こういう行動の裏にはこういう心理がある確率が高め(一般的にこういう心理があることが多いと見られているよね)、という推測の先に、さらに、確率的にはよくない形で現出するかもしれない人格、を読み取られる流れだ。うーん!迂遠!って思った。二重構造だし。遠めの推測だろう。ある行動が好きだと言っているひとの背後に人格Aがある確率が4割、人格Aが悪い形で現出する確率が7割、なんてふうに、甘く見てもこれくらいになって、こういう行動が好きって言ってるならこういう心理を持ってそうだよね~あるあるだよね〜、くらいに思われていたとしても、それでも28%とかじゃん、って思った(とはいえ割合の数字にはなんの根拠もないけど)。完全無視してよい妄想とまでは思わないけれど、気にしすぎても駄目そうな憶測に過ぎないとは言えそう。