世界は称賛に値する

日記を書きます

蛇口いっぱいまで捻った言葉

 暑いとか扇風機を出そうよとかの話題すら今までは封印していた。というか、今後も封印する可能性が高いが、今は書く。今は封印しないで書いてみるとどうなるかを実験しているところだからだ。封印の利点はもちろんあると思う。が、欠点もあるだろう。と書いた現在、利点と欠点を上手に挙げて、脳内で把握して、文章を書いているわけではない。むしろ全然考えられていない。頭の片隅で、利点も欠点もあるって書いちゃったけどあるかなー、とか思いながら、けど利点も欠点もないものなんてないっていうか、どういう判断軸を持ってくるかでどんなものだって利点になったり欠点になったりするのだから、利点もあるけど欠点もあるよーという話の振り方は全然オーケイでしょ、むしろナンセンスすぎて、単なる言葉の間としてしか意味がないよねえ→いやいやそんなわけないでしょ、これを言うことで話の基軸を「利点欠点」の軸だと表明することができるんだから、そのあとの話の理解度が変わってくるわけで、そういう前置きみたいな言葉っていくらでもあって、前置きがある空間を指し示すだけでそれそのものは判断を持たないからって無意味とかナンセンスとか(重複してます)言うのはどうなんだよう、っていう感じで思って端的に間違いな気がしてきた。
 蛇口いっぱい捻って書けるものをとにかく書いてみたいなあ、って今日はずっと考えていて、結果として今はこれを書いている。指を止めないというルールだ。プライベートライティングという言葉が以前読んだ本の影響であって、それで呼びたいのだけど、ほかの呼び方も聞いたことがある。テキストプレイだ。思い出した。何にせよ、言葉の奔流に身を任せるみたいな文章は一回描いてみてもよいと思う。思うよーどうぞー、とおすすめできる程度には、楽しくて、違和があって新鮮なものが出来上がるし、見えてくる。意外なほど普段の文章って言うのはセーブされているものなんだなあ、っていうのもわかる。同時に、自分の脳裡に文章や言葉がこれほど沢山あるんだな、一気に出すことができるんだな、ってこともわかる。とにかく出せるだけ出せ蛇口いっぱい捻ってほとばしる言葉と意味を見せつけよう、みたいな意識で書けるだけ書くと、ここまで論理が破綻し飛躍し調整できなくなるんだなー、というのもわかる。言葉が先に出すぎて、なんとか整えようとする意識が働いているのもわかるんだけど、とにかく追いつかない感触が理解できるのだ。いや、ぎりぎり追いついているような気もするけど、ぎりぎりなのでたまに駄目でミスも発生する。その、限界ぎりぎりの能力の奔流みたいなものは本当に快感だ。それを公開する必要はないのかもしれないけど、あとで公開するんだよなあ、という意識があると、やっぱり調整機構がもうちょっとだけ頑張ってくれる気がするし、頑張ってくれている機構もまた(そうでないより)楽しかったり快感だったりする。限界まで自分の能力を発揮するのは楽しいって話でまとめるといいのかな。そういうのではないかも。回数が少なすぎてわからないところがある。もっといっぱいやるといいのかもだ。
 いっぱいやりたいような気もするんだけど、えーと、疲れるのもあるし、楽しすぎて躊躇しちゃうみたいなところもあるし、みっともない姿をずっと見せてしまうのもどうなの(恥ずかしいし、楽しませられなさそうでいやだなあ)って思うところも強いので、結局、もろもろの要素が絡まって、あんまりやらなくなる。あーもーめっちゃ楽しい文章書きをしたが、公開もするけど、この感じを、ずっと続けるかはわからない。明日の自分が続けたいと思ってくれるように認識を維持できるかはわからない。アドレナリンが発生してて落ち着いたら逆に凹んでしまうのかもしれない。それもよい。
 が、何にせよ、この技術を何日かだけでもずっと続けて、ある程度慣れて、自分のものにすると、いろいろと変わってくるような印象はかなりある。成長もするかもしれない(成長の定義は不明なので成長しているかどうかは自分の気分で判断されます)。うん、まあ、適当にやってみましょう。