世界は称賛に値する

日記を書きます

早め忘年会(可能であればもう一度やってもよいくらい)

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▼▼インターネット、ホームページ、ブログ、等々が誕生し普及したことにより、市政の人の書く文章を読める機会が増えた。プロとプロじゃない人、玄人と素人、というような区切りの話にしたくなることもあるのだけれど、区切りたいのはそこじゃないことも多くて、なんというか、生活や日常における今日一日があって、その上に「文章を書く」という行為を乗せている人がおり、そういった俎上と手管で書かれたものが、読めるし、読ませてもらえたりする、ということに対して、区切りたいところがあるというか、考えたいところがあるというか、感謝したいところがあったりする。
▼▼というような、枠組み、形状、構造、機構、出自を持つ文章が、出てきた時代に「いられた」ことに、ラッキー!と思ったりしている、のだ。文章としての善し悪しの話はまあ別になるけれど……、と続けたくもなったのだけど、まあ、素敵なものに出会え続けたからこそ、ラッキー!って思えているところはあるはずなので、幸運か偶然によって素敵なものに出会える経験が数多くなってしまったため、良し、善し、と思えてしまっているところはあるんだとは思う。好きだって思えた言葉たちが持っていた表面的な共通要素を褒め称えているだけな気はする。


▼▼というようなことをぼんやり思いながら、ブログ読みたい日記読みたい、というようなことを口にした飲み会が、あったりした。若干早めの忘年会気味の大変素敵な飲み会であった。遅刻にわちゃわちゃしながら向かった。


▼▼というようなことを書いておいてなんだけど、プロじゃない人の文章が読みたい、んではなく、素人の文章が読みたい、んでもなく、日常や生活という空間の中で書かれた文章が読みたい、んでもないかなあ、って思ったりもした。してきた。次段階の言葉が見え隠れしている気はする。日常や生活に重心が置かれている──足を掛けている、ということに基準を置くのであれば、それを満たしてくれている言葉って、ほかにもあるじゃんと思ったのだ。ほかの芸術行為内でも満たしてくれていることがある。となると、インターネットの、ブログの、言葉に、強いフォーカスを当てて褒める、理由、にはならないだろう。インターネット言葉のみが見せる芸術性、的なものを掘り出せないか欲であった。