世界は称賛に値する

日記を書きます

月曜日の始まり

▼▼言葉を語り自分を説明することを、可能性を狭める行為だ、と認識している人がいるかな、と思っている。語ると固まってしまう、という判断である。正直言って、ほぼ意識したことがない。理解はできる。全然理解できる。改めて考えてみると自分が持ちそうな判断だよなーとも思う。けど、実感が全然ない。問題だと思えない。まあ「説明語りなんかじゃ別に固まらないよ」とか思っているのであろう、なんて思い浮かべてみて、で、違和感を覚えてみた。いや──思ってない。むしろ明確に「固まる」と感じている。というか──というより、経験則として、固まってるなあ、と判断できている。語ったことに縛られることなんてもう沢山あったよー、とは、明確に思っている。▼▼ので、結局これはもう「別にアリじゃん」と思っている、ってことなんだろう。説明語りで固まるけど別にアリでしょ、って思っているようなのだ。なんでかな? 駄目そうじゃない? って疑問は浮かぶのだけど、問題視までは繋げてくれない何かがある。明瞭な認識はないけど思考過程の中で良さげなものを見てしまっている、ような気配がある。のだ。考えとこう。

昨日読んだものです。記録で、おすすめで。自分向きニュースサイト的な備忘録。

→ 「さてさて、こういうことを続けていると、ある人間を見ても、ある現象を見ても、その他の洞察力や分解力が少ない人が見てもさっぱりわからないようなことが、多重な立体構造になって見えるようになっていきます。これはなかなか精神的にシンドイ(目の前の感情に自分をゆだねることがしにくくなるので)けれども、同時に非常に快楽のある行為です。何かを深く広く透徹して見ることは、人生を何倍も深く生きることです。深いということは、喜びだけでもなく、悲しみや苦しみもなので、単純にいといえるかはわかりません」

→ 「しかし、芸術が取り扱うのはそのような意味での物語とはすこし違う。芸術は、物語の次元では現実に係わりをもたない。把握出来ないほどに複雑な状況(目に見えないもの)を目に見えるようにするのが物語だとすれば、芸術は、目に見えるような形では現実に係わらない。物語が現実に先行し、現実よりも早く作動するとすれば、芸術は、その物語よりもさらに早く、物語よりもさらに前に作用する。目に見えないものを、目にみえないままで取り扱い、目にみえない次元ではたらきかける。既に、物語-現実になったもの、意識となり、知覚となり、形となってしまった後では遅すぎる何かに対してはたらきかける(既に目にみえるものとなったものを構成するのでは遅いのだ)。だから芸術のはたらきかけは、目に見えない、つかみ所のない感触としてしかあらわれず、形象とはならず、決して一般化されない(抽象的分析によって事後的には説明可能だろう)。だからそれは、自分の身体を実験場として、探ってゆくしかない」

→ 「話しあう、と彼女は即答した。それでも延々とゾンビ映画ばかり流すとしたら、その人はだめな人だね。私はゾンビ映画ばかりじゃいやだってこと、うちのテレビは一台しかないことをわかってくれる人だったらだいじょうぶ」

→ 「人間は現在持っているものの総和ではなく、彼がまだ持っていないもの、これから持ち得るものの合計である」