世界は称賛に値する

日記を書きます

日曜日の始まり

▼▼思考Aと思考Bの切り替わりにおけるNOW−LOADINGな時間で、実は数秒が消費されてしまっているのでは? なんて、最近は少し考える。▼▼同じことばかり意識してしまっていると時間の進みは遅いんだよなー、とか、けどこまめに考えを切り替えながら考えたり動いたりしてると時間はすぐ進むかなー、とか、まあ、時間は全然余裕あるなあとか思いながら行動してたのに不足してしまう時の実際の状況、とか……、あと、行動管理の理論でさまざまな人が気づいたり気にしたりしていること、などを、ぼんやり眺めていて、あ! 時間経過の速度と思考の切り替えの量って実は関係あるんじゃないかなあ? って思えたのだった。▼▼認識や意識の狭間は認識も意識もできないからなあ、と思ったけど、検証は難しいか。現実的で実際的で現時点的な経験の問題として、文章執筆時は間違いなくそうだ、とは、まあ言えそうだ。いままさにそうだから、なだけだけど。
▼▼起床時刻は午前9時。勤務は便宜上休みとなった。明日の会議開催の余波だ。

昨日読ませていただきましたよ! 感謝と覚えておきたいための自分ニュース!

→ 「というわけで、会議が延びないようにする第一歩は、人のミスを追求しないことである。「お前ミスっただろ」「うんミスった。ごめん」「次から気をつけろよな」「まかしとけ」ぐらいでとどめておけば、もうちょっと会議は有意義になるだろう。もちろん、何度もミスったり、影響が大きいときは別だ」

→ 「意識に上った考えなんて、所詮は普段の行動の残滓だろう。普段いろんなむずかしい課題にチャレンジしてるからこそ、言葉が生まれ、他人の言葉にも反応できる。難題から逃げてばかりでは言葉さえ生まれないし、他人の言葉も受け取れない」

→ 「だから自分のやり方以外のやり方を認められなくなる。それ以外の方法は間違っていてくれなくては困る。何しろこっちは必死で正解に辿りつかなければならないのだから。そのときすでに、求めているのが「求めるもの」ではなく、「求める形」に倒錯してしまっている。それは実際、苦しみでしかないし、しかも恐らく終りのない苦しみです。なぜなら答を求めるということをすでに(無自覚的に)放棄してしまっているから。答というものが客観にある、ということではありません」

→ 「王蟲の触手大会見てたときに「あ、ナウシカってこれ人間じゃないんだ。なんかこう、祈りとか恨みとか願いとか、そんなもんに支えられた場所でぽっかりと浮いてる作られた美しいものだ」って思いました。そういうのが好きかって聞かれたら、まあ嫌いです」

→ 「”心が傷ついた人の精神描写”がここまで上手に書く作家センセは貴重ですよね。入間センセにはこの筆力を大切にして頂きたいものです――いやよそう、そんな「みんなが認める価値観」みたいな言い方は。ぼくが何が言いたいかって、つまりぼくが入間センセの文章が大好きだってことだけなんですから」