世界は称賛に値する

日記を書きます

所与の遊び場で思考を遊ばせる話、ではなくなった(昨日の再思考)

▼▼恐怖や嫌悪や怠惰によって、無自覚なまま──むしろ無自覚だからこそかなー、対象から目を逸らしてしまう、っていうような精神構造の話に、以前より頻繁に意識を向けてしまうようになったところが、最近はあって、なんでだろ、って試行錯誤していた。
▼▼問題意識を精緻に認識しようとするなら、言葉としては「対象から目を逸らしてしまう」ってよりは「選択肢から目を逸らしてしまう」を選ぶのが的確なんじゃないかなあと判断を改めたりした。視線を対象に向けようとしない型、の話ではなくて、まるで対象の選択肢が見えていないかのように振る舞ってしまう型、の話が念頭にあるからだ。▼▼と思ったのだけど──思って前述のように書いたのだけど──びびって視線を向けないのと選択肢がないように振る舞うのは別物だよなー、って判断できた瞬間がたぶんあったのだけど、でも、実際は同じなのではなかろうか……? 単なる勘違いや気の迷いだったのではないか……? という雰囲気が後半になって漂ってきて、まあまあ混乱してる。いやあぜんぜん状況が見えなくなってきてる。おかげで、若干の修繕のつもりが、完全な見直し書き直しになってる。▼▼視線を逸らす対象として「具体的対象」じゃあなくて「行動可能性」が置かれている時のことを今は考えてる、のである、あたりの言葉で的確かなー。
▼▼数日前にも類似の問題意識で思考していた瞬間があったなー。って思い出した。
▼▼数日前の思考の時には、理想的な精神、の話を、言葉にしようとしていた。前述のような「恐怖と嫌悪と怠惰によって対象から目を逸らして着手を避けてしまう心境」の「全面的に逆側」にありうる精神、こそが、じぶんの理想としている精神型だよなー、なんて問題設定で考えていたのであった。▼▼率直に言って、前述のような「目逸らし」を、最近、胸中にほんとうに頻繁に見かけてしまう、のであった。理想的精神の話を、ふと目で追ってしまったのは、要するにそれがあったからだろう。ほんとうに最近のじぶんは世界および社会をを避けすぎだし怖れすぎだぞ、と説教し直してみた。びびりすぎである。哀しすぎだし残念すぎるわーと思った。諸々の難易度を認識し始めてしまったからなのかなあ。けどまあ思考停止が過ぎるというか、現状程度の把握や判断で理解しきったつもりになってんじゃねーよというか、を思った。▼▼恐怖や嫌悪や怠惰によって「目を逸らしてしまう」場面が増えてきてしまっていること、よりも、言葉をこうしてここまで伸ばしてこないと前述のような事実まで届かなかった──腑に落とせなかった、ってことがほんと残念だぜ、って思った。胸中の感覚への認識、を、こんな深いところの届きにくい棚に仕舞う習慣がついてしまってて、いやあもっと目立つところに置いとかないと駄目でしょうが、って落胆してる。▼▼脳内棚胸中棚の整理はしたいけど、まあ習慣の問題だよなあ。
▼▼最近何避けてたかなー、と考えた、というか、思考の発端はここだった。
▼▼言葉やら文章やら思考やらを「形式化」して「技法化」するようなことをものすごく避けてる……、驚くほど無自覚に避けてるなー、おお、なんて思って、結構びっくりしてしまったのが、最寄りの思考なのであった。▼▼思考的な文章を執筆してると異様なほど時間を喰うので、時間短縮を目指して規則を見つけようと「思考を開始する」場面って比較的頻繁にある。のだけど、思考はあまり続かないというか、撤廃が以上に速いのだ。粗雑な論拠を見つけさせてさっさと却下してしまえ的な誤魔化しが瞬時に行われがち。
▼▼同じようなことばっかり書いてるよじぶん……、って認識させられそうなのがほんとうに「嫌」なんですよー、という解釈は想像できてて、ではなんで「嫌」なんだろ、が不明瞭なので、探ってみようかなー、っていうのが思考動機の一つにあった。けどまあ、酸素がほんとうに続かなくなってきたのでここで一旦浮上しようかな。▼▼最初の思考粗出し段階では、執筆プロセスを形式化することで失われる自由、的な論旨に、ほとんど癖で視線を「向けちゃって」て、論旨を適当に組み合わせながら諸々試行錯誤してみてたんだけど、あれ……? やっぱり違う話だよなあ……? うん、と、時間置いてみたら思ってしまったのであった。なので書き直してる。続きはまた考えようと思う。