世界は称賛に値する

日記を書きます

月曜日の始まり

▼▼常に希望はあるぜ、って「決めて」みてはいる、かな。勝手に「決めて」はいて、だから──けど、所詮は勝手な決意の問題なので、実際あるかどうかは知りません、なんて言える。蚊帳の外ですよね、とか。運命系概念は人外すぎて興味なしさ、なんて言ってみせることは可能かなと思う。誇張表現で、結果的には結構嘘なのだけど、まあよしだ。
▼▼起床は午前7時。勤務は休み。凍えそうな雨と風。軽く出掛ける予定がある。
▼▼実際は人外の領域や神の領域にも興味はあって、つまり、運命とか他我とかや時間とか、認識しきれない問題にだって挑戦してやるぜ! なんて思うだけ思ってみせるような無謀さも、愚かさも、あって、だから、決めつけてしまえー、なんていう技法で、勝負を挑んでみせたりもしている、わけだけど、正直微妙なところだよなー、っておろおろあわあわ困ってもいる。▼▼都合よく身勝手に勝負事を設定してみせて戦ったフリをして満足してるだけだろ? って解釈が、素直に可能なことは、わりと理解できるからだ。実際のところ自分でもそう思ってしまうからだ。けれど、構造的な負い目を持つぼくらに実際問題何ができるっていうのさ? なんて問うてみると、だってほかにないでしょう? って思えてきたりも、するのは、まあ結構確かなのだった。
▼▼なんてところで。下げ止める。最近は下げ止められるようになったかな。だって、挑戦できなくて打破できないことを「悲しまないと駄目である」と判断「せねばならぬ」決まりだって、実は全然ないからだ。ないだろ、って思うからだ。
▼▼いわゆる「限界があることを楽しめ」的な道だって、あるはずだろう?って思う。所詮「決めつける」ことくらいしかできない「から→楽しい」って思ったって、別にいいでしょう? なんて、明るく楽しい解釈のほうへと道幅を拡げていくことくらいはできるようになった、って言える。言っておくのは楽しいよね、っても思う。強がりの話になってしまいそうだけど、強がりにしないところぎりぎりで思えるような気がする、のだ。

昨日読ませていただいた感嘆しそうな言葉達の羅列的ニュースです。

→ 「ところで、世の中は世渡り上手だけでもうまくいかず、クリエイティブで雑な人たちだけでもうまくいかず、両方いて互いに利用しあって何とかバランスを保っているのだろうか。世渡り上手だけで固めた県とクリエイティブで雑な人たちだけを固めた県を作り、どっちの県が長持ちするかを観察することでこれを検証しようという勇者の登場が待たれる」

→ 「目で文字を追い、指で押さえ、口で朗読し、リズムをとって耳で自分の声を聞く。これにまさる全身学習法はありません」

→ 「おそらく、就活中の迷える学生が読んで一番教えてほしいのが、この「自分自身の行動原理」がどういうことで、どうすれば早く手に入れられるか、だろう。きっとそれは、それなりの期間、心理的にも深くコミットして、なんらかの仕事なりをすることでしか得られないのではと思われる」

→ 「百も承知よ。水道橋博士とやるせなすの色々考えてそうな方で国民投票にかけて、結果としては水道橋博士にやってもらう」「めちゃくちゃだ。やるせなすが勝ったらどうする気ですか!」

→ 「自分にとっての誇りと、ひとに対する期待は、トレードオフな場面があるかもしれない」

→ 「歴史や古典に強ければ、京都・奈良の旅は何十倍も楽しめる。現在のその苔むした古寺に行き着くまでの人間の喜怒哀楽と思惑のドラマが走馬灯のようによぎって、古刹の前で涙が出てくるね。科学に強ければ、読める小説の種類だって、ぜんぜん違ってくるし、感動して泣ける映画の数ずっと多くなるし、というか、同じマンガでもアニメでも映画でも、ずううううと多角的な角度から、ずっっっっと深く深く深く味わえる」