見当違いクレーム
たとえ理想的な状況や指針が思い描けていたとしても、なんでもはできない。変に手を出しすぎると、意識も手数も散漫になり、結果、効果も薄まるため、一点集中的に振る舞わなければならない、ってことはざらにある。そもそもリソースの問題もあって、ぜんぶやるには時間も人手も足らない、ってことも少なくない。さらにいえば、コインの裏表のような、あることをやったとき、そのあおりを受け、逆効果的に、反対側に位置するアクションの価値が削られる、なんてシチュエーションもあったりもする。粗雑な優しさを見せると、相手をつけあがらせることとなり、厳格な管理体制が崩れる、というような。むろん、適切な用法・用量で、効果のおよぶ範囲を掌握し、悪影響がないように調整することも(ときには)可能だ。が、常にその範囲が見極められるわけでもない。その調整のためのリソースが足りないことだって少なくない。
といった事情があるにもかかわらず、それに気づくことができておらず、なんでこれをやらないんだ、こういうふうに進めないんだ、と、ピントのズレた不満をかかえ続けていることは、まあある。経験的にも、あとから気づくことのできるケースはあった。そのせいで、無邪気に否定意見を口にするのがためらわれたりもする。が、視野の狭さを怖れ、盲目的に従い続けているのも、なんか違うというか、おそらく、よくはないんだろう。ときには端的な"ダメさ"だってある。誰かが指摘しないと変わらないこともある。あるいは、指摘したところで変わらないため、諦めて、距離を置いたほうがよいことだってあるだろう。いずれにせよ、事情を汲んで、ってことばかり思っていたら、場が動かない。かき回したほうがよい、と思えるシチュエーションのほうが世には多いようにも見えるし。
疑問点というか微妙点
前述したような見当違いを怖れ、丁寧に考えようとしても、微妙だ、と思うところが最近の業務内でいくつかあった。複層的な難点のようにも見えるが、しかし、まとめて考えようとすると明らかに混乱し始めるため、腑分けした。というか、腑分けするためにとりあえず出てくるところだけ言葉にした。ずっとこんな混乱をかかえ続けてはいるよな~。いろいろあって難しい。
評価の基準というかコードに引きずられすぎに見えた。思考停止の気配というか。なぜかここだけ判断が雑になる。給与水準などをできるだけ上げないようにしたいという思惑から、とにかく厳しくすることが可能な理由を探しているせいで、あえて雑に見ようとしている気もする(無意識かもしれないが)。たとえば、評価A、評価Bといったレベル設定に、以前とは変わったところがあって、今回のBなら以前のAに匹敵するケースがあるようだったのだけど、AはAじゃん、BはBじゃん、Bなら上げないよ、といった評定が下されていた(ように見えた)。このような問題と、おれの若い頃は同じような給与でやりくりしていた、という、物価高や給与控除額、あるいは家族形態、といったものの時代の違いが認識されておらず、ただ「頑張ってない」に収斂させるような問題が、悪い感じに噛み合っていて、報酬面では期待できない場だな、とあらためて思わされた。
協力的に物事を進める意識が薄いなとあらためて感じた。懸念点をあげて、それを指摘しておけばよい、という空気が強いように見える。指摘はしたという免罪符をつくっているというか(指摘するための調査はしっかりやる印象だが)。一緒にやってあげるとつけあがると思っていそうな雰囲気すらあった。だから指示しかしない。それで相手が動かないなら相手が、悪い、サボっている、と、相手側を非難するところまでを仕事だと思っていそうでもあった。実状を踏まえ、どういうやりかたが可能か、考えよう、ということは、(たぶん、あえて)しない。結果、動きが悪い。適した業務の進めかたなのか疑問だ。リスクを自覚させることだけが我々の仕事であり、改善策は相手側が考えるものだ、という思想が基本になっている。さらにいえば、出してきた改善策の良し悪しを判定(だけ)するのが当然のおこないだ、という意識も垣間見える。損や害や違法性がないよう、安全性だけ担保していれば、よい、という認識なのかな。相手側に寄り添おうとすると嫌な雰囲気が出て困る。