世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月01日(水)的を射た疑問を持ちたくはある

見当違いクレーム

たとえ理想的な状況や指針が思い描けていたとしても、なんでもはできない。変に手を出しすぎると、意識も手数も散漫になり、結果、効果も薄まるため、一点集中的に振る舞わなければならない、ってことはざらにある。そもそもリソースの問題もあって、ぜんぶやるには時間も人手も足らない、ってことも少なくない。さらにいえば、コインの裏表のような、あることをやったとき、そのあおりを受け、逆効果的に、反対側に位置するアクションの価値が削られる、なんてシチュエーションもあったりもする。粗雑な優しさを見せると、相手をつけあがらせることとなり、厳格な管理体制が崩れる、というような。むろん、適切な用法・用量で、効果のおよぶ範囲を掌握し、悪影響がないように調整することも(ときには)可能だ。が、常にその範囲が見極められるわけでもない。その調整のためのリソースが足りないことだって少なくない。

といった事情があるにもかかわらず、それに気づくことができておらず、なんでこれをやらないんだ、こういうふうに進めないんだ、と、ピントのズレた不満をかかえ続けていることは、まあある。経験的にも、あとから気づくことのできるケースはあった。そのせいで、無邪気に否定意見を口にするのがためらわれたりもする。が、視野の狭さを怖れ、盲目的に従い続けているのも、なんか違うというか、おそらく、よくはないんだろう。ときには端的な"ダメさ"だってある。誰かが指摘しないと変わらないこともある。あるいは、指摘したところで変わらないため、諦めて、距離を置いたほうがよいことだってあるだろう。いずれにせよ、事情を汲んで、ってことばかり思っていたら、場が動かない。かき回したほうがよい、と思えるシチュエーションのほうが世には多いようにも見えるし。

疑問点というか微妙点

前述したような見当違いを怖れ、丁寧に考えようとしても、微妙だ、と思うところが最近の業務内でいくつかあった。複層的な難点のようにも見えるが、しかし、まとめて考えようとすると明らかに混乱し始めるため、腑分けした。というか、腑分けするためにとりあえず出てくるところだけ言葉にした。ずっとこんな混乱をかかえ続けてはいるよな~。いろいろあって難しい。

  • 評価の基準というかコードに引きずられすぎに見えた。思考停止の気配というか。なぜかここだけ判断が雑になる。給与水準などをできるだけ上げないようにしたいという思惑から、とにかく厳しくすることが可能な理由を探しているせいで、あえて雑に見ようとしている気もする(無意識かもしれないが)。たとえば、評価A、評価Bといったレベル設定に、以前とは変わったところがあって、今回のBなら以前のAに匹敵するケースがあるようだったのだけど、AはAじゃん、BはBじゃん、Bなら上げないよ、といった評定が下されていた(ように見えた)。このような問題と、おれの若い頃は同じような給与でやりくりしていた、という、物価高や給与控除額、あるいは家族形態、といったものの時代の違いが認識されておらず、ただ「頑張ってない」に収斂させるような問題が、悪い感じに噛み合っていて、報酬面では期待できない場だな、とあらためて思わされた。

  • 協力的に物事を進める意識が薄いなとあらためて感じた。懸念点をあげて、それを指摘しておけばよい、という空気が強いように見える。指摘はしたという免罪符をつくっているというか(指摘するための調査はしっかりやる印象だが)。一緒にやってあげるとつけあがると思っていそうな雰囲気すらあった。だから指示しかしない。それで相手が動かないなら相手が、悪い、サボっている、と、相手側を非難するところまでを仕事だと思っていそうでもあった。実状を踏まえ、どういうやりかたが可能か、考えよう、ということは、(たぶん、あえて)しない。結果、動きが悪い。適した業務の進めかたなのか疑問だ。リスクを自覚させることだけが我々の仕事であり、改善策は相手側が考えるものだ、という思想が基本になっている。さらにいえば、出してきた改善策の良し悪しを判定(だけ)するのが当然のおこないだ、という意識も垣間見える。損や害や違法性がないよう、安全性だけ担保していれば、よい、という認識なのかな。相手側に寄り添おうとすると嫌な雰囲気が出て困る。

2024年04月30日(火)タイトルの文言がそもそも魅力的という話はある

作品名そのままのタイトル

感想文、推薦文、書評、レビュー、といった文章があらためてとても好きだ。ブログ記事のタイトルで最も好きなパターンって、結局、作品名・作者名がシンプルに記されているやつだな、と気がついた。視界に入った直後にはクリックさせられている。こんな作品を見ました!よかった!といった(嬉しそうな)話はいくらでも聞きたい。楽しいというより気持ちよい。コレクション気質なのは間違いない。コレクションがひとつ増えるのが気持ちよいんだろう。死ぬまでに読み切れない本の話も、遊びきれないゲームの話も、何度も聞いてきたし、多少は身に染みるようにもなってきたのだけど、それでも、新しいものに出会いたい、リストアップしておきたい、という欲は鎮火させられていない。傑作・名作がいつでも控えているんだぞというテンションで生きていたいらしい。とはいえ、いずれ、どこかのタイミングで、ほんとうにすっかり吹っ切れて、記憶力と検索力を変なところに費やしてしまったなあ、って後悔し始める可能性も、ある。ときどきはそんな落ち着いた気分もただようようにはなってきた。それでも、現状、消し切れていない性向だ。

2024年04月29日(月)日記の話をまたしている

着想・生活・作品

着想の日記と、生活の日記と、作品の日記は、それぞれで分けて、ぜんぶ書き残しておきたいな、という欲はずっとある。けれど時間は足りない。日によってどういう言葉が出てきやすいかも違うし。毎日三つ書き残す時間はない。結果として、混在させながら、うまく出てきてくれたものだけをここに書いているわけだが、種類別に整頓された文章の並びをまざまざと見せつけられると、素敵だ、そうしたい、とは思わされたりはする。まさに隣の芝生が青く見えて羨ましくなる形だ。見栄えのよさにすぐ釣られるというか。

昔は、ブログのカテゴリ設定を使って、多少はやりくりもしていたのだけど、いまはそれもやってないしな~。読書メーターなりブクログなりのサービスを活かして言葉の置き場所を区分けしておく手もなくはない。ぜんぶを置いておくところと、そこから切り出す形で、種類ごとの言葉を置いておくところに、分けるのは、まあアリだろう。

というような迷いがあった。同じことを何回迷うんだとも思わなくはない。が、こうして、日々、日記なり言葉なりを書いているのであれば、そこに関する振る舞いに目が向くのも当然ではあるか、とも思わされた。毎回視界に入ってくるなら、疑問だって浮かぶし、検討もしたくなる。あるいは気が散る。

なんかもう、こういった、「文章を書くという行動が、普段から視界に入ってきて、それに対して、ごちゃごちゃ考えるぜ」、っていう状況そのものが楽しい、趣味になっている、ってところがありそうだな~、とも気づかされた。日記やら文章やらが趣味っていうより、範囲設定でいえば、そのあたり一帯が趣味と化している気がする。なにが趣味なのって問われたときに答えにくいことこのうえないけども。

2024年04月28日(日)テンプレ日記フォーマットも復活させたい

同じようにも使える別の単語

テンプレートとフォーマットの違いを調べて、昨日の日記に書いてみたが、「このテンプレートに入力してください」と「このフォーマットに入力してください」は、たぶん、おんなじような行動がうながされるし、あんまり違和感もないか、とは思った。使い道、タイミング、世界に対するピンの突き刺しどころ、などによって、ほぼ同じところを指し示す言葉として使うこともできるんだと思う。意味の重なり合うところがある(ただ、フォーマットのほうは、「このフォーマット"で"入力してください」が妥当な気もしてきた。形式・書式という意味でとらえるならそのほうが自然に聞こえる。あるいは、「フォーマット上に」という言いかたになったり)

ほとんど同じ範囲を指し示してはいるものの、どこからどこまでを含むか、眺める視野角、アプローチ方法、動詞的にとらえるか名詞的にとらえるか、主語的か目的語的か述語的な使われかたか、背景となる学問・歴史、といったものの違いによって、異なる単語として成立しているケースがあるんだろう。この言葉とこの言葉、よく見たら同じニュアンスとして使えるのに、しかし、なぜか、普段使いでの使用タイミングは変わったりするんだよな……、みたいなことは感じたりする。普段の、しれっとした日常の中では、その違いをうまくつかめないことも多いのだけど、今回、焦点をあてた「テンプレート」と「フォーマット」の差は、見定めるためのよい具体例になりそうかな~、って思った。区切りや角度の違いがほどよい雰囲気だった。観察しやすそうというか。

2024年04月27日(土)単語の違いを自分の言葉でメモしておく

テンプレートとフォーマット

「テンプレート」と「フォーマット」の違いがわかりにくい。使いかたの差がつかみづらい。調べたこともあるが、すぐに忘れている。あらためて調べた。

テンプレートは、まず、ほぼ完成に近い構造を持っている、と見なしてよさそうだった。都度都度、事例に合わせ、用意された空欄だけを埋めていくようなイメージになる。変更の余地が少ない。だから選ぶ余地も少ない。そのぶんミスの余地もほとんどない。安全。言葉だと「雛形」が適合する。鋳型みたいな意味もある模様。穴ぼこの空いた型。決まった型に流し込んでいく。

対して、フォーマットは「形式」「書式」あたりが適合するようだった。関連語として、必要・ルール・手順、といった言葉も思い浮かんだ。制作するために必要な要素と手順を取りまとめたものというか。項目・表記・順序などの定めのかたまりだ。土台、方針。初期化に使われることから、初期に定められる区切り、みたいなイメージもありっぽい。使える状態にするためのもの。

www.weblio.jp

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単語調べ

似たような言葉同士の使い分けがわからなくなって、調べたくなることは多い。マジでわからん、と困惑させられていることも少なくない。書き残しておきたい気持ちも強めだ。そのほうが長く憶えておけそうだと感じるからだ。書き残すときは、辞書的な意味とともに、自分なりの説明も一緒に書いておくようにしている。一般的な意味だけしか視野に入れていないと結局は身につかないと感じている。ぼくの経験と織り交ぜるならこういうふうに言えるかな、くらいの試行錯誤は、記述しておきたい。

まあ、誰かしらから見たら極めて自明な違いにむだに悩んでいる可能性もあるので、つまらん話題になっちゃってるかも、と思うこともなくはない。が、それでも、ぼく自身に対する有用度でいえば、かなり高いものになってくれるんじゃないか、と思っている。素敵な日常描写より、よほど、脳内・行動・人生を、よいほうに動かしてくれるんじゃないか、なんて想像したりもする。むろん、見極める単語の重要性にもよるのだろうけど。そして単語の重要性ってなんやねんという気もするけれど。

2024年04月26日(金)「思い出す」を一日一回はやります

平和な四月末

穏やかな一週間だった。業務の話、あるいは仕事の話だ。ちなみに「業務」のほうが言葉としては好きである。というか、「仕事」という言葉があんまり好きじゃない。ピンとこない。よくわからん。手掛かりになるかなと語源を調べてみたこともあったが、つかみづらいのは変わらなかった。すべきこと、すること、すごと、しごと、といった意味・音声の変遷によって生まれた単語のようだったが、しかし、それを知ったところで、特にわかりやすくはならなかった。「仕事」を「すべきこと」と短絡する世界観も好きじゃないし。

ただ、まわりまわって「仕事」が「すべきこと」ということばの重力圏にとらえられていく様は(たまに見かけるけど)好きである。仕事って"すべきこと"じゃん、って単純に証明もされいていないイコールで言い切られたら、えー、って思うけど、仕事を丁寧にとらえていくとどうしても「すべきこと」の意味合いから逃れきれないところがあるなあ……、みたいな諦めと潔さまでたどりつくなら、好きである。

思い出す

記憶に関するコツがさまざまに語られる昨今だ。細かいところはともかく、「思い出す」という行動自体が極めて肝心であることは、理解した。「(定期的に)思い出すことこそが、記憶を定着させる」という構造が、理解・知性・成果・勉強、といった物事の根本にあるっぽい。このあたりについて考えたいと思うなら、「思い出す」を起点にすべきなんだろう。じゃないとずっと"芯"を外し続けることになりそうだ。ファールやゴロがいちおう打てているからという理由で満足してしまいそうというか。

ひとつの文章、ひとつの段落、ひとつの記事を読み終えたあとに、あるいは、なんらかの作品に触れたあとに、目を閉じて、いまの体験を思い出そうとしてみる。まるで思い出せない中、それでも、うんうんうなって、なんとか見聞きしたものを取り出そうとしてみる。といった行動を、現状は、ほとんど取ってはいない。が、そういった「間」をはさんだほうがよいんだろう。

ときどきでも、そういう、思い出すための「空白」を作っていくことが、記憶のありかたを一変させてくれるんだろう。一変させてくれるとまで言うと、なかなか大げさな言い回しになるけれど、でも、実際、それくらいの違いが出てきそうだとも思える。「思い出す」行動がせめて一日一回あるかないかで、記憶の形状が異なるものになっていくというか。整えられていくというか。ごくごく自然に振る舞っていたら、「思い出す」アクション、の選択肢なんて、ぜんぜん選ばれないし。