世界は称賛に値する

日記を書きます

ボードゲームの話増やしすぎかなとか雑記

▼▼日記の言葉が若干ボードゲームに侵食されつつあるかとは思う、今日この頃だ。脳内がだいぶ侵食されつつある、と言ってもおそらく過言にはならないだろう。というくらい嵌まってはいる。がっちり極まってもいるし、はっきり楽しんでもいる。


▼▼と同時に、このあたりの状況というか感覚に対して、快楽物質、的なものを怖れるような気持ちもあったりするのだった。快楽を覚える系統の物質が脳内で排出されているのは確実、と想像できる雰囲気はあるし、あの時の気持ちよさをまた味わいたいぞ、という思考が出てきがちになっているのも判るからだ。これまで日常的に出てきていたのとは異なる、突出した快楽、が、躰を浸しているのが判る。


▼▼我慢ができないほど脳が「気持ちよさ」を求めている、という状況が発生すると、細かい「嫌い」や「怖い」が気にならなくなる、といった経験は過去にもあって、同じ匂いがしているぞ、なんてふうに思ってもいるのであった。普段ならば躊躇したり遠慮したり恐怖したりしそうなところを、軽視し始めるし、無視し始める。目もくれなくなる。気持ちよさの優先順位が上がって、些細な気持ち悪さの優先順位が下がる、というより、認識できなくなって優先順位からも取り下げられる、という雰囲気かな。消滅させてしまう。



▼▼ボードゲーム、アナログゲーム、にまつわる日記は場所を変えようかな、と、少し検討してはいる。とはいえ、けっこう迷ってもいる。今後、複数の場所で文章を書く機会が出来たとしても、総合的な場所として、ごった煮的な場所として、じぶんが吐き出したぜんぶの言葉を読めるところとして、ここを扱おう、というふうに、以前から思ってはいたからだ。アーカイブス的な認識でいたのだ。


▼▼といった背景のもとで言うならば、これまでここで、素直に、自然に、書いていたようなもの──軸の異なる言葉は違う場所に置こうかなーとか(今回のように)思った時にここにこそ「残したい」と思えてしまうようなもの、を、単独で置いておける空間を、改めて、別に、ちゃんと、作っておかないと駄目なんじゃないの? っていうか、おかしな話になっちゃうんじゃない? っていうのは、まあ、思ったりもできてしまう、かなー。


▼▼ぜんぶまとめて置く場所、保管所、ごった煮、を作っておこう、と思うこと自体はまあよいにせよ、保管所とかごった煮とか「にだけ」置かれている言葉、っていうのがあるとするならば、それはなんかこう、駄目なんじゃない? いや駄目っていうか間違いっていうか、あとあと整理することを考えたら、単純に、微妙なんじゃない? 面倒では? というようなことは、思うし、思ってよさそうと思えるけれど……。


▼▼表舞台に出したもののアーカイブス的なものの中に、アーカイブスの中でだけ表出させていた言葉、なんてものが混じってたりすると、結局訳わからなくならない? 混乱しません? というだけのことであって、別に、アーカイブスの中、「様々な表舞台の言葉に混ぜるようにして」置いてる言葉、っていうのがあってもよい、のだけれど。▼▼とはいえ、まあ、別に、そういうものを求めてる訳でもないでしょ……。



▼▼日常思考記、思考の閃き、のようなものを「主」っぽくしておきたいんだろうな、とまあ改めて思ったりしているわけだけど、思う理由は、そういうものを読みたいから、と思っているからなんだろうな、ということも、合わせて思ったりした。


▼▼思考記録は惹かれ合う、ということでもないけれど(なくもないのだけれど)、まあ、なんらかの「通知」的な手立てによって、この人に読まれているのだな、とか認識できた時、当該人物が「思考記録的な言葉を書いている人物」だと(書いていることが追跡で判ると)、安心できる、というところがある──安心するじゃん? とか思っていたりするのだよなー。というか、じぶんの場合はあるのだ。ままある。


▼▼まあでも、日常思考記に限ったことではなくて、同種の趣味、同種の嗜好、が見えている相手ならば、「興味を持たれたこと」について、納得できる、納得しやすい、不満や怖れを覚えずにいられる、そして、安心できるし油断できるし、時に慢心できる、というだけの話じゃん? というふうに思えるところもあるなあ……。


▼▼というふうに整理してみると、ここに、安心とか納得とか「理解できる」とか思っているの、けっこう微妙なのでは、って気もしてくるなー。


▼▼ぜんぜん関係のなさそうな(同じ趣味を持っているとは思えないような)相手が、興味を持ってくるのは、なんだか納得がいかない、正直理解ができない、不満だ、というようなところに繋がりかねない話であって、そして、そんなふうに人を──人の興味や心や趣味嗜好を、既定するのは、雑すぎるだろ、とも思えるからだ。
▼▼じぶんが興味あるものについては、常に(まわりから見て判るように)、アウトプットしてなきゃ駄目だ、とでも言う気?


▼▼でもまあ、それでもなお、センシティブにはセンシティブを、というか、優しさには優しさを、というか、それを(出せるならば)(ちゃんと)出しながら──相手に判るよう提示しながら開示しながら開陳しながら、たとえば「武器を持たない」ことをアピールする時に両腕を開いてみせるようにして「近づく」ことに、意味があってもよい、価値があってもよい、必要性があってもよい、というのもあるかあ……。たぶんあるかな……。


▼▼実際まあボードゲームに特化したブログなりは作ってもよさそうかな。分けるにせよ分けないにせよ、作るのは作ってよいだろ、と思ってはいる。じぶんがボードゲーム関連の情報を欲した時に読みたがるもの、気分、から逆算したら、作ったほうがよい、っていう結論には、どうしても近づいていってしまうわけだし……。まとまってる情報が欲しくなる、っていうだけではあるけれど……。


▼▼ボードゲームってけっこう頭を使う。けっこうどころじゃなく頭を使う。人間と人間の頭脳ががっつりすっきりどっぷりぶつかり合う雰囲気だ。ボードゲームで遊んでいる時に認識できる「人への知見」って、ほんとうに沢山ある。「思う」ことだって沢山だ。このあたりを活かして、思考記録や発想記録を残すことは、まあできるだろ、っていう気もしてはいて、うまいこと融合させる道を考えましょうよ、とも思ったりしている。変にズラさなくてもよい。変にズレそうとか思わなくてもよい。▼▼わからんけど。


▼▼ボードゲーム空間の中でこそ得られる知見、勝負や競技、あるいは遊戯、的な空間内だからこそ気づける気配、特殊な状況設定にこそ現れてくれる発想、というあたりに、現状、目が向けられていないせいで、なんかこう、これまでとは違うものを書いてしまっているなー、異質な言葉を置いてしまっているなー、思考記録じゃないぞ……、とか思ってしまったところはありそうだな。▼▼目が行ってないのは、楽しさに溺れてるから、快楽に目が眩んでるから、まだそのあたりは気にせずとも(あるいは気にせずにいられているからこそ)じゅうぶんに楽しく気持ちよくなれちゃってるから、ってあたりが理由になるのかな。▼▼と気づければ、いろいろ派生させられそうでもあるな。


▼▼現状の雰囲気だとボードゲームの「作品紹介」の比重がおおきいから、今のような言葉使いになってしまっているのだ、という切り口も思いついた。ボードゲームの「思考紹介」の比重が増やせれば、これまでと変わらんやろ、という気もするのであった。