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中島義道『哲学塾授業』/アラン・ワッツ『「ラットレース」から抜け出す方法』/紀伊國屋

購入記

▼▼買い物記録を最近は書かなくなっていた。継続して羅列しておけるとのちのち日記を読み返した時に非常に楽しめる事項、なので、改めて書こうと思った。日記を読み返した時に楽しめるとわかっているのに書けてないこと、なんて、沢山あるけど……。

哲学塾授業  難解書物の読み解き方

哲学塾授業 難解書物の読み解き方

 こうして、ちょっと前の先輩を徹底的に批判した聡明な者たちが哲学史に残っているんだね。
 こうした思想史を、私が大学時代に師事した大森荘蔵先生は「田舎芝居」と呼んで嫌っていたが、それもわかる。こんなことばかりして、それが「哲学」だと思い込んでいる愚かな哲学研究者は少なくないからねえ。まあ、ここでは、ただ個々の哲学書はかなり闘争的で(これを専門的には「ポレーミッシュ(polemisch)」という)はっきり撃退したい敵がいて、それがわからなければまず理解できない仕組みになっている、ということを言いたかったのだ。
 大森先生は優れた哲学者だったと思うが、思考の一般性を文字通り信じていたように思う。デカルトのように、人類の成員のすべては──十七世紀の西洋人であろうと、二十一世紀の日本人であろうと──、ごまかしなく思考すれば同じ真理に達すると信じていたところがある。
 だが、私は信じない。といって、哲学が時代や社会に相対的であるというような幼稚なことを言いたいわけではなく、哲学の要求する普遍性は、きわめて特殊なものだということ、その意味で地理的/歴史的にはユーラシア大陸の西の先端で発生した思考法にすぎないことを強調したい。言いかえれば、「哲学」とは、厳密には西洋哲学にほかならないのだ。
──P.14「1・ロック『人間知性論』」

「ラットレース」から抜け出す方法

「ラットレース」から抜け出す方法

 人と技術の問題については、ほとんど誤った語り口で述べられる。つまり、技術に見合うような道徳性を完成させることなしに、人類は進化してきた、と。あるいは好んで言われることだが、教育や理性的な思考の進歩を伴わないまま、技術面だけを育むことによって、人類は片寄った進化を遂げてきた、と。だが、問題はもっと根本的なものだ。私たちが自分自身を人間として感じたり理解したりする、そのしかたに根源的な原因がある。あるいは、生きていることについて、個人的存在やアイデンティティについて、私たちがどう感じるのか、その方法に原因があるのだ。
 私たちは、生物としての私たちの存在に対する誤った、ゆがめられた感覚や幻想のために苦しんでいる。「『私自身』というのは、肉体の内側で生き、その肉体に縛られた、感情や行動の孤立した中心である──肌合いの違う、よそよそしい世界と五感を通じて接触しながら、人々や事物からなる『外側の』世界に『直面する』中心である」という感覚を私たちがもっているからだ。
──P.22「1・極秘事項」

▼▼哲学寄りの目線に触れたくなったんだろう。真理探究の欲望にはほっとできる。油断せず床下を確かめていく思考が読みたくなった。実際に気分がよくなったと思う。▼▼後者の『「ラットレース」から抜け出す方法』は、以前にみちアキさんの推薦文を読んでいたので買った。題名の似合ってなさがホントにヒドイな。ビジネス書の空域で「ラットレース」って概念が時々使われている、ってことを知らなかったせいなのか、あるいはむしろ、ビジネス書空域にも影響を与えたかったってことなのかなー。哲学系の書籍としては明らかに楽しそうなものだったので何にせよ幸せな気持ちにはなった。