世界は称賛に値する

日記を書きます

自我と主体と私(世界をよくする現代思想入門)

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20061014/p1

「<私>のための現代思想」でひっかかっていたのは、この流れをわかってなかったからなのだと思う。が、その後に続く「「主体としての自我」の存在は否定されます」というとこは、やっぱりわからない。「超越確実性言明」の束が自我、というのは納得できるのだけど、「個々の主体が「世界を引き受ける」ことによって「世界」が存在するのに、なぜ「自我」は「主体として世界を引き受けるもの」になりえないのだろう。

そもそも「自我」とまとめられているものの中でも「属性」と「自我」は別個に思えてしまうのだった。そして他者なしに存在しえないのは「属性」のように思う。

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20061018#1161104819

おんなじところで引っ掛かってるっぽいです。そこはやっぱりわからなかった。高田明典さんの本からはすごくいい何かが感じ取れるのだけど、最終的な世界の解釈が自分とちょっと違うらしく、肝心なところで「???」となってしまうことがときどきあります。それと、自分が哲学をちゃんとしたルート?では学んでない、というのもあると思うけれど。「自我」とか「主体」とかいうコトバの「哲学のセカイでの使われ方」がきっとよくわかってないんでしょうね。あと「他者」というのもなんのことだかわからない。よく出てくるけど。大事なコトバなんですかね。

▼読んでいて無闇に思考が回転したので言語化してみたいと思った。実はほぼ同じ箇所で引っ掛かりを覚えていたりする。野矢茂樹氏の『『論理哲学論考』を読む』を読み始めたことは確実に影響を与えているだろう、と思った。この思考のきっかけだ。でも、所詮はぼんやりだ。まとまっていないし、まとまる気もしない。が、とりあえず書いてみようと思った。同じ問題を脳に与えてみて、おのれが何を考えようとするか、を書いてみたい。


▼断片的に刻みながら書いていこう、と思った。というか、把握力が半端すぎてまだまだ断片くらいしか書くことができない、とも言える。なんていうかな……、と呟く。思考を始めよう。▼私は私である、と言うとき――思うとき、前者の『私』と後者の『私』は違う、と感じられる。独我論的思考をおこなったことがある人ならこの違いは比較的簡単に掴めるんじゃないかなあ、と思うのだが、実際どうかは不明だ。ちょっと期待しすぎかもしれない。なんにせよ、私は私である、を『判断』として脳裏に置いて欲しい。私は私である、という言葉で起動できる思考が今私の頭の中に二つほど浮かんでいて、判断じゃないほうはうまく語れないからだ。問題は無論『判断じゃないほう』にあるのかもしれないし、あるいは『判断じゃないもの』なんて単なる錯覚なのかもしれないが、とにかく『判断』を頭に思い浮かべて欲しいのである。言い換えるなら、私は私である、と判断して欲しい。▼最もしっくりくるのは、私は私である、と『発語』してみせたときの感触なのだけど、ここまでシフトさせてしまうと、なんかズルくないか? と思ってしまう。


▼以後は主観が増えてくる。判断を思い浮かべると、正直なんとなく違和感を覚える。改めて判断しよう――私は私である。確かにそうだろう。いい判断だと思う。けれど、判断しているこの『私』は、後者の『私』にすら含まれてはいないのではないか? なんだか違うもののように思えないか? と、不意に永井均氏の思考を連想する。永井均氏の思考を借りるなら(そして、安易に借りると、どこかしらずれてしまうようにも思えるところもあるので、あくまでも、補助線として使ってみて、少しだけわかりやすくなったらいいなあ、程度の『試し』であるのだけど……。ちなみに、思考を借りたのはおもに『〈子ども〉のための哲学』からだ)、後者の『私』は認識論的『私』であり、判断したのは存在論的『私』ではないか、なんて思考をおこなうこともできたりした。▼と考えるなら、認識論的『私』は自我であり、存在論的『私』は主体なんだろう、と思った。ちょっと飛躍したように思う。が、続ける。▼自我は『私』というもの(ここでの『私』はたぶん認識論的とか存在論的とかは関係がなくて――でも『もし考えてしまったなら』それは認識論的『私』になってしまうのではないか、と思う)を思考するときとか言語化するときとかに『必要になる』ものなのではないか、なんて思いついた。無根拠な判断に対して根拠を与える――超越確実性言明の無根拠さに根拠を与える。ときに、自動的に出現するもの。


▼けれど、結局のところ『言語化すること』が絡まなければ、超越確実性言明なんて存在しないようなもので、だから『根拠』が必要になることもなくて、結果として『自我』はまるっきり絡んでこない。けれど『主体』というのは多分このあたりでは消えないのだと思う。だって『主体』は『世界』を引き受けるものだからだ。言ってしまえば『私』の言語化なんて関係がないのだ。と言うのはさすがに過言というものだろうか。軽く無茶を感じる。結構な飛躍があるようにも思う。あとで整理しよう、と思いつつ続ける。


▼いずれにせよ、自我と主体は違うもので、要するに『違うところ』にある。個々の主体が世界を引き受けることで世界が存在し、自我は世界を引き受ける究極の要素である、という文章をより深く綺麗に捉えることがこのあたりの理解を深める鍵なんだろうな、とか考えてみた。おそらく鍵はこのあたりにあるんだと思う。びっくりするほどまとまらないなあ。他者は否定できず、それぞれの他者が『主体』として世界を引き受けるとき世界の存在が立証される、とか、共在、とか、全然繋げられなかった。光明はわずかに見えたような気もするが、錯覚の可能性もやはり否定できずだろう。遠すぎるなあ。

世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)

世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)

 実は、私たちは「自己・自我」として「世界を引き受ける」ことはできません。ある個人が「超越確実性言明の束によって世界を引き受ける」という言い方に注意してください。「超越確実性言明」は、「言葉」によって行われる行為です。言葉とは「私に属しているもの」ではなく、「共同体」「共在」に属しているものです。しかし「超越確実性言明」は、個人が行う言語行為です。これはどういう意味を持っているのでしょうか。個体は「世界を引き受ける」ことなどできない存在であるにもかかわらず、外形からすれば「個体が世界を引き受けている」ように見えるのです。
「世界を引き受けている」のは「それぞれの自我」ですが、「世界を引き受ける機能を出現させている」のは「共在」です。より正確に言うならば、「個体は、他者の世界を引き受けている」ということになります。ある個体が、私は、私が生きていることを知っている」という超越確実性言明を行うとき、それは「私は、あなたの世界の中に確実に存在している」という意味を持っています(そして、その意味しか持っていません)。「私は、私が高田と呼ばれていることを知っている」という超越確実性言明も同様です。「超越確実性言明」とは、その言語行為の行為者が、他者として、他者である「あなた」の世界の存在を「引き受けている」ことに他なりません。
――P.189

▼理解しなければならなそうなところを抜粋しておこう。まだ全然駄目だ。