▼▼テレビゲームなどを遊んでいる時に、これ、ゲームバランス悪いなあ、っていうようなツッコミをしていることがあるわけだけど、ほとんど同じノリで、物語内の異世界に対して、この世界バランス悪いよ……! って思っていることがあったりする。
▼▼っていうことについて、君は世界に対して何を知ってるねん、と思った(世界のバランスのよしあしなんて、よくツッコめるな……、と思ったのであった)。
▼▼哲学のもとで考えていると、ぼくがこの世界に対し「知っている」と思っていることって、ほんとうに、驚くほど、ぜんぜん根拠がないなあ、と思わされることがある、のだけど、でも、はっきりとした根拠を知らなくても、実際問題、生きていくしかないのだから、観測した範囲で、こうだろう、って見当をつけて、知っている風に生きていくしかない、んだとも思っていたりする。知っている、の範囲を狭めながら、「知っている」を使いこなしている。
▼▼実際に生きていくしかないこの世の中については、まあ、「完全無欠に」知っているわけじゃなくても、それでも、判る範囲でやりくりしていくしかないので、「知ってるよー」と言いながらやっていくのも、まあしょうがないか、って思ったりできているわけだけど(じぶんの知っている範囲で、この世界の「バランス」を、想定してみせる、っていう「この世の渡りかた」だって、当然アリなんじゃないの、って思えるわけだけれど)、でも、切実な実生活もなく、判ってるんだか判ってないんだかもはっきりしない「異世界」に対して、バランスが悪い、とか言っちゃえるのは──「バランス」までを想像できる気になれちゃうのは、なんか、駄目なんじゃないか? って思えたり、したのであった。
▼▼世界のことってぜんぜん判らない。だからこそ逆に、判る範囲で「判る」って言いつつ、こなしてゆく──、という、世界への、向き合いかた、付き合いかた、と、異世界に対する「判ってる」感、別物すぎるだろ、って思ったのだった。