世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年7月11日(金)情けなくても、逃げずに書いて、まあ人に見せてもいい

感情、感覚、よりは「意識」が手慣れている

(一、二ヶ月前くらいの断片メモの手直し)

頭の中とか、内面を探ろうとしたときの言い回しを考えてみるなら、「感情の動き」「感覚の動き」といった表現よりは、「意識の動き」という言いかたが、一番しっくりくる。くるかな~、とは感じた。内面へのフォーカスのしかたはいろいろあれど、個人的には、「意識」というイメージが、つかみやすい。というか、たぶん、重心をかけやすい。そういう心理観、精神観、内面観、みたいなものがあるんだと思う。

ほかのふたつ(感情・感覚)に着目しようとするよりは、「意識」ということばの示すところに目を向け、その動きを捉えようとするときのほうが、より"描き出しやすそう"に感じられる。

すこし前の意識の動き

少し前に感じていた「意識の動き」を描き出せないかな、って考えたのだけど、どうしても怯えたり縮こまったりする挙動が主立ったものになってしまいそうだったため、なんとなく視線を外してしまった。手が止まった。そんなことばかり書いていたくないな、って感じた。ちょっと前まで、そういうのが書かれがちだった、と再認識した。

情けない、憐れ、かわいそう、みたいな状態を、わざわざひとさまに開陳したくはない。憐れまれたくないし、見下げられたくない、みたいな心情は、当然あったんだろう。反対側には、まともだとか立派だとか感じさせたくなる見栄っ張り根性ももちろんあった。そういうものが複層的に、ツライ、嫌だ、といったことばを取り下げさせているところはあった。

とはいえ気持ちはわかる。しかし、そうやって、見栄えばかり気にして、ひっそりとダメージを喰らい続けていても、しょうがない、とも思う。

開陳する理由

たしかに、わざわざひとに見せたり語ったりするようなものでもないのかもしれない。けれど、誰かに聞いてもらうことによる、ケア(奇跡的に理解者が得られたときの癒やしや昂揚、とまではいかなくとも、理解者が得られるかもしれないという可能性によって得られる希望や期待)も、できるだけ軽んじたくはないし。

それに、恥ずかしい、隠そう、といった強がりによって、いつの間にか自分自身にまで欺瞞を向け始めたりしたら、それが一番、怖い。素直さから離れていきそうにおこないは、積極的に、制しておきたい。ヘンなところに(しかも自分の脊髄反射的におこないによって)気持ちを持っていかれたくはない。

情けなくても弱くてもやれることをやっていくしかない。強がりとか欺瞞とかかっこつけじゃなく、きわめてフラットな形で、そんなふうに思える精神は、なんとか獲得・維持しておきたい。

ことばを書く習慣によって、そういったところを培っていければ、とは、あらためて考える。決してカンタンじゃないとは思うが、ことばを通して自分と向き合う、っていうやりかたは、一定、効果があるようである。経験的にもたしかにそう感じられる面はあった。「ひた隠しにする」「むりやり平気な顔をしてみせる」ってやりかたじゃ、たぶんダメだ。だからまあ、やれることはやっておきたい。