世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年11月13日(水)心理分析の当然視

内観するかしないかもひとによる

異なる立場、異なる価値観の人間の気持ちも、いくらかは想像できる。多少はできるんじゃないかという感覚でふだんは生活している。「相手の気持ちを考える」ことなんて不可能だろ、とまで言い切れると感じたことはない。

が、「えええ、そんなひといるん?」と驚かされるくらいの、「越えられない壁」がここにあった、と思えることも、なくはない。まったく想像できていなかった立ち位置と感覚で生きているひとがいることにも、ときどきは、気づける。

といったところでいうと、内観・心理分析・感覚や直感への疑義と検証、といったものを"あんまりやらない"、どころか、"ほとんどやらない"ひとがいるっぽいのは、意外だった。というか、想定外だった。最初にその種の説明を耳にしたときには、耳を疑ったと思う。「え???」ってなった。

そもそも「時代性や地域性がある」とも聞く。精神やこころや自我の取りあつかいかたは、時代や地域、文化や思想の違いによって、さまざまな変遷をたどってきたのだ、って聞かされるようにもなった。昔と今では見かたや取りあつかいかたが変わってきているようだ。逆にいえば、現代的なあつかいが絶対でも唯一でもない。そして、そういった前提で考えるなら、全人類が同じような「内面」をかかえ、同じように見つめ、生きている、といった単純な世界観が、甘いと見做されるのも、当然ではあるんだろう。そんなわけないじゃん、って言われてもしょうがない気持ちにはなる。

越えられない常識

生得的な嗜好によるものなのか、環境によって培われてきたところがあったのか、わからないのだが、自分の内面を見ること(内面の挙動や所作ばかり気にして、ときに、おもしろがること)は、きわめてフツーの振る舞いだったため、そうじゃないひとを想像することが、少なくとも若い頃は、あまりうまくできていなかった。「常識」のあつかいだった。気づけない壁があった。とはいえ、詳しく憶えてはいないが、それが相対化されたときは、楽しかったんだと思う。想像の埒外にあった認識構造、価値観や美意識を知るのは、どちらかといえば、気持ちよくて、おもしろい。