世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年7月12日(土)そんなの甘えだと拠りどころをあたえないパターン

拠りどころがない

常に自分の味方でいてほしいとまでは思わない。不備やミスは指摘してほしいし、明らかに手を抜いたりサボっていたりしたら叱ってくれるほうがありがたい(むしろ真面目に向き合って、叱ってくれるのは嬉しい)。

見捨てない、裏切らない、困ったときは助けてくれる。少なくとも、頭ごなしに話も聞かず怒鳴りつけるようなことはしない、と、ある程度はしっかり信じることができていれば、それを拠りどころにして、行動もできる。勇気も出るだろう。

甘ったれが過ぎるとか、一人前の大人として相応しくないとか、そのあたりの根性論・人間論の問題はあるにせよ(そこを指摘することは可能にせよ)、ともかく、そういった心持ちや心のありかたにおける手助けによって、動けるように変わる面はあると思う。確率論的に、動きやすくなるとも思う。

現環境は、そういった信頼感や信頼性があまりなく、そんな中、「そんなものなくても、うまくやらねば」って考えるところも多かったのだけど、少なくとも、ぼくにとっては――ある種の人間にとっては、「そんなもの」と言ってよいようなものでもないのかもしれない、と感じることも、また、増えた。勝手に「些細」だと切り捨てるのもよくないんじゃないか、と考えられるようにはなってきた。

よりどころが前提にあってもいいのでは

全面的に頼りきるつもりもない。けれど、そういった要素が、あったほうがよいのではないか、と考えることはできる。別に、甘やかなさや拠りどころのなさが、かならずしも、人格を薫陶してくれたりするわけでもないみたいだし。厳しさが鍛錬や訓練になるかも人や場合によって変わるみたいだし。だから、そういったありかたが、組織やチームの「前提」にあるくらいでよんじゃないかと――それくらいひとは基本弱いものなんだと、見做されていてもいいのではないかと、そう考えておきたくなったりもする。それによって、実践や成果の総量が上がりそう、とも想像できる。

ずっと尻込みしている自覚はあるので、甘えとか情けなさとか、どうせ解決には寄与してくれなそうな要素はもう、あっさり投げ棄て、なにがあれば、どういう形であれば、やりやすいか、っていうことを、まっすぐに考えてみたくなった。

甘えていようが情けなかろうが(誰にどう思われようが)、構造的にこうなっていればなんとかできそう、っていう打開ルートが想像できるなら、うまくそこを目指す手立てはあるんじゃないか、って思える。その後に、装飾を整え、体面をよくするやりかただってあるだろう。