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日記を書きます

2025年03月15日(土)即決しない癖、都合よく考える癖

いったん考える癖

即断を避ける癖がいったんついてしまうと、とりあえず、なんとなく、「時間をかけて考えようとする」習性ばかりが目立つようにはなってくる印象だ。即座に判断するのが怖くなってしまう。動きが鈍っていく。実際そんな印象はある。

まえに読んだ「ゼロ秒思考」(赤羽雄二/ダイヤモンド社)は、「そこを鍛錬したほうがよい」「そういうところを鍛えていける」といった観点で書かれた本で、新鮮味と、心地のよくて具体的な手ごたえがあった。素早くまず答えを出してみよう、という振る舞いを、トレーニングしてみせる意味合いをしっかり見せてくれる本だった。

トレーニング可能という意味では、つらつらと思索や言葉を一度も止めることなく文章を書き連ねていくような、ブレーキを設けない日記の書きかたにも、類似した手ごたえを感じている。頭を動かす、とにかく遮らない、そうしてスピードアップしていく、といった鍛錬法によって育てることが可能な筋肉があると思う。

けどもちろん、ただ「速ければよい」ってことでもないのかもしれない。わかりやすいひとつの基準で測るばかりじゃなく、多様なありようこそが、致命的なところでは、生き物を救いうることがあるはずだからだ。いろいろなひとがいたほうが、生物として、生き残りやすい。同質のものばかりだと、天敵があらわれたときに、一網打尽の未来から逃れられない。一見、劣っているかのように見えたとしても、バリエーションがあるに越したことはない。

思考や判断のスピードだって、一見、速いほうがよいように思えたとしても、速いひと遅いひと、いろいろいたほうが、中長期的には・生物としての生存率的には、都合がよくなるのかもしれない。遅いひとの慎重さがなにかを救うことだってあるだろう。その、ゆるやかなタイミングこそが、抜群の結果を生んでいるような、そんな事態だって、あるに違いない。とはいえ選ぶとしたらどうするか、って言われると、迷うが、まあ難しいところだ。それはそれとして、素早い判断ばかりする癖もまた、あってもよい、とは思った。そういった行動が可能になる選択肢だって、ないよりはあったほうがよい。

もっとも自分にとって都合のよいパターン

ものすごく自分に都合よく話をさせてもらえるなら(認識の混乱を収めるため、いったんそれを、理想的な一極として見做しておきたい)、ぼくの感覚がおおむね正しくて、職場の企業文化や上司の振る舞いが(世間一般から見ても)ズレており、結果、ぼくのかかえているツラさや齟齬にも一定の妥当性がある、ということになってくれたら、ありがたい。「環境がひどかったんだ」って言われたい。うまく貢献できない、うまく達成させられない、という"動きづらさ"も、ゆえあることだって信じたい。みたいなことになってくれるなら(そりゃ当然)気持ちだってラクになる。

けど、そんな都合のよい事態ばかりを願うのは、さすがに無謀なんじゃないか、とも、まあ思う。ぼくのせいじゃありません、って思いたがりすぎだ。

とはいえ、そちら側に認識や解釈を寄せていってくれる証拠や、可能性の種が、もしもあるなら、それは、とても、ありがたい。もし存在するのであれば決して手放したくはない。"この世に絶対に正しいこと"なんてなく、ぼく側ばかりが正しいと評価されるような都合のよい物事なんてどこにもないのだとしても、組織の成長・発展をひとつの基準としてとらえ、そのもとで「より適したほう・より適さないほう」を考えていくことくらいは、できると思うし。そして、その考えをもとに、ぼくの側に、多少の正当性や、そう思わせるだけの証拠が、ある可能性だって、なくもないとは思うし。結局は、「ぼくも相手も、双方ともに、一定程度は妥当」って話になるだけな気もしなくはないけれど。

経営学的、ないし、大企業の経営論的な範疇で、「会社の適切なありかた」を学んでみたりすると、現状の職場環境との乖離がとても大きいな、と感じさせられることは多い。こういった場面で、見て取ることのできた"食い違い"を、どこまで信じてよいんだろうか(存在を信じてよいのか、そして、自分の見る目を信じてよいのか)、って迷い続けているところが、よくないところというか、原因の一端ではあるんだろう、とも考えていた。