思惑は決めつける
たとえ相手の思惑を探り続けたとしても、答えはどこにもない。なぜそういった立ち振る舞いをするのか、どういった意図をもって放たれた言葉なのか、背後にあるであろう思惑を読み取ろうとしても、到底無理だ。「まったく意味ないよ」とすら言われたりする。質問して答えをもらったところで、ほんとうかどうかを調べる術はない。尋ねることが思惑をゆがませる可能性だってある。どうせ確定はしない。なら、考えるだけ時間の無駄である。
それはそうかとも思う。自己流だろうと一般論だろうと、どんな事例を参考にして考えたところで、正解にたどり着けるわけではない。もちろん、ときには、正解っぽいものにかすってくれて、役に立つことだってなくはない、けど、総合的に見たときに、その『役に立った」が有益であり続けてくれるかはあやしい。むしろ、一度かすってくれたことで、むやみに、同じ成功を追い求め続け、ややもすれば、自分の気持ちまで軽視し、相手の思惑っぽく見える幻想におもねるばかりになったりさえする。そうなったらなおさらダメだろう。害のほうが大きくなるケースだ。
とするなら、一定、決めつけてしまったほうがよいんじゃないかな~、って思った。いわゆる仮説思考のたぐいになる。こっちもありうる、あっちもありうる、と迷ってフラフラしているくらいなら、事態を「きっとこうなんだ」と"仮止め"的に決めつけて、地に足つけた風の挙動で動き回ったほうが、まだよい。
フラフラとへっぴり腰で右往左往しているよりは、たいした根拠なんてなくても堂々と動き回っていたほうが、意外と、何事も、よい方向に動いてくれたりする、みたいな、おおざっぱな判断はあるし。あと、物怖じして動けないよりは、とにかく動いたほうがよさそう、っていう乱暴な判断もなくはないし。
このあたりは、もちろん、自己正当化や自己保身も混じってきそうで、怖くはある。が、調整しだいだろう。行き過ぎていなければ、まずはよしとしたい。意図しなくても混じってきそうではあるし。混ぜないと平気でいられなさそうなところもあるし。混じりっ気なしを目指すのはきっとやりすぎだ。
現状の仮止め
仕事ができなくて凹む~、職場の空気が悪くて凹む~、みたいなところを行き来して思い悩んでしまうやつの、あいかわらずの再整理。ほんとうにぐるぐると繰り返し続けているなあ、とも思うが、逆に、おもしろくもなってきた。見捨てずにお付き合いくださいとも別に言えないが(思いついた言い回しなので書いただけ)。
極端なことを言えば、根本的なところで、ぼくがほんとうに何事もうまくできておらず、迷惑をかけていて、害悪ですらあって、評価が低くなるのは妥当、冷たくあしらわれるだけの理由がある、っていう可能性は、なくもない。ないと断言はできない。が、そこまで見当違いで自分を見続けているとはまず思いたくないし、役に立っている部分だって、習熟したり成長したりした部分だって、あるとも信じたい。そう思えなければ耐えられない面も当然ある。そして、評価者側の認知や判断が完璧で、非の打ちどころがなく、その評価に、ミスも、欠点も、苦手も、まるでない。完璧な上司であり完璧な職場だ、ってことだって、そうそうないはずである。だから、ぼくが全面的に非があります、っていう"仮止め"は、さすがに避けておきたいし、避けてよいんではないか、とは思える。多少は前向きなところで押さえてはおきたい。
事態を"仮止め"するなら、このあたりになるのかな、とは思った。
実際、ぼくの業務において、できていないこともできていること、どちらも当然あって、きっと、評価者の目線では、たしかに、できていないところが目立っているんだろう。でも、ただ目立って見えているだけなんじゃないの、とも思う。そんなの、視野が狭いせいじゃん、というふうにだって言えなくはない。また、ひとを伸ばす意識もなく、押さえつける意識のほうが、むしろ高いだけ、と感じられるところもなくはないし。そして、実際のそういったあたりの割合は脇に置いておいて、「ぼくにとって相性の悪い場所だ」と、ただ思っておけばよい気もする。
性質や関係を見定めていく中で、ぼくにとって都合のよい見解を無意識見出してしまおうとするところは当然あるわけだけど、しかし、明確に、上記のように感じられる場面だってなくはないのだし、その「感じ」を、まず、自分で、信じてはみたい。そこを"仮止め"としておきたい。それくらいのところに立って、改善策を練ってはゆきたい。