幸せ
あんまり深く考えずに幸せについて考えると、人類に困窮も苦難もないとにかく低負荷な光景を想像してしまうところがあるけれど、「いきもの」という土台で考えた場合、それがかならずしもよい状態なのかは、わからない。負荷が減ると筋力や活力に近しいものはどうしても弱ってしまいそうだし。万人向けの薄味の幸せが蔓延し始めたからこそ新たに生まれる疲れや苦しさもなくはない気がするし。
困窮も苦難もまったくない、ともすれば怠惰・飽食・脳天気みたいな状態と、「全人類のちゃんとした幸せ」が、イコールで結べるかは、つまりあやしい。でも、だからこそ、悲しみも飢えがひとつひとつ減っていってほしいと、単純なところでは思ってしまう。目の前で、ひとり、悲しくないひと・飢えていないひとが増えてくれそうなら、とりあえず悪いことじゃあない、と、いちいち思ってみたくなる。せめてそちらのほうに舵を取りたくはなる。実際には、たぶん、いくつもの細やかなパラメータの調整(あちらを立てればこちらが立たず)が必要になるんだとは思うけど、いつになればその最終回答が得られるのかもわからないし、永遠に待ち続けているわけにもいかないわけだから、シンプルな指針や軌道修正は捨てたくないなとも思う。
あてずっぽうからの希望
まあ、完璧な解決策はむしろないので、疑ってかかると同時に、信じるしかないんだろう、とは思う。百年・千年・一万年と長期的な結果を考えていったとき、誰もそこの正しい予測なんてできていないし、そもそも答え合わせの機会だって来やしない。誰もがそれなりにそれっぽいことを言っているだけであって、等しく信用に値しない。一万年前の猿の鳴き声と、今日の天才的な学者の意見に、差を見出す理由は、ないと言えばない。
ただ、だからこそ逆に希望を持ってよいと判断するスタンスがあるのかな、とも思うのだった。ぼくの信念に基づいて、まるで当てににならないかもしれない誰かの意見が、当てになりそうだと思えるなら、信じてみたらいい(検証の仕方とか、距離の置き方とか、信じ方とか、訂正可能性とか、手法としての良し悪しは、また別の話としてあるんだろうけど)。"はずれ"を応援するのはイヤかもしれないが、"あたり"がないのと同じくらい、どうせ"はずれ"もない。
いいこといってる
このひといいこと言っているな~、素敵な活動をされているな~、応援していきたい、とか思ったときに、そのひとが「正解」を言っているか気にしてしまうシーンが、ときどき自分の中であって、しかし「正解」なんてあるはずないじゃん、だったら「正解」かどうかを前提に応援するかどうか決めるなんて無理じゃん、とも思ったしだいだ。誰もがみずからの短い人生を懸けて自分なりのことを言っている。それらの中で、相互に響き合うものがあったなら、いいね、って言うしかない。もちろん嘘も勘違いもありうるので、疑いも慎重さも併せて持ち合わせておいたほうがよいわけだけど、そういう誠実さをスタンスに配分しておけるなら、あとは信じられるものを信じていけばたぶんよい。