世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年03月14日(金)やさしいことばに導かれる日も来る

見られる可能性

誰かが見る可能性ゼロのクローズドな環境だと、甘え始めるというかサボり出すというか、どんどん雑になる。執筆者目線でも質が低くなって物足りなくなってくる。そして、飽きる。といった事態が起きがちだ。少しくらいは読まれる可能性に開かれていれば、いくらかは、しゃんとする。それを目指してブログなりSNSなりにあえて片足を置いているところはある。

世界を肯定する言葉も空虚か実際か

世界を肯定するだけなら簡単だろう。ただの前向きさだけでも事足りる。けど、それに納得できるかは話が別だ。

とはいえ、とてもうまくそれを謳い上げてくれるひともいる。とてもやさしく、とてもうつくしく、惹かれる言い回しと声で、そちらのほうへ、丁寧に導いてくれる。なめらかに、世界を愛しやすくしてくれる。愛さなきゃと思わせてくれる。

それでも、つきつめれば、根拠はない、とは思った。いつだって足元はぐらついている。それどころか、足元があるなんて感覚自体が錯覚だ。世界を断定するための証拠なんて結局はなにもない。

というような世界観が前提なので、時間や場所、ケースバイケースの区切りを導入せずに、世界をさせようとしてくる言葉は、あんまり好きじゃなかった。聞こえのよい言葉に空虚だ嘘だズルイと思う癖はあった。

ただ、最近は、なんとなく、それもよいね、って思うようになった。キツいツラい等々がなくもない環境に置かれるようになって、慰めになる前向きなことばも、悪くない、聞いていたい、安心したい、と思うようになってしまった。ひとときでも救われたらありがたい。

しんどくなったとき、やさしくてうつくしい面を、あえて目立たせてくれることばが、こんなふうに働いてくれるんだな、と理解した。こういう理解が得られただけで、昨今のキツいツラいも悪いもんじゃなかったのかもな、と思えたところもなくはなかった。

不幸や傷も活かしかた次第だ、乗り越えられない試練を神はあたえないものだ、同じ辛酸を舐めたもの同士でないと理解しあえない、みたいな話にしたいわけでもないんだけれど、現象としては、そういった事態が起こってくれたのかな、それも悪くないね、とも思った。