世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月31日(金)都合のよい物語の位置づけ

慰めになる物語

すごく慰めになってくれる物語にはちょくちょく出くわす。あまりに自分に都合のよい世界が広がりすぎなのではないか、と疑う形で捉えてしまい、「いやいやそんな甘いもんじゃないでしょ」「勘違いしちゃいけないぞ」と警戒し、距離を置いたり、否定したりすることも、少なからずある。忌避するのが正解だと思っているフシすらある。

が、しかし、実はちゃんと地に足についた話だったり、現実に即したところのある話だったりすることも、もちろんありうるわけで、「こちらのほうに光明があるよ」と、真面目に導いてくれている可能性だってあるため、そういった「道がひらける」可能性を、みずから、ヘンな警戒と及び腰によって、潰してしまうっていうのも、それはそれで嫌だな、とは思わなくもないのであった。

ぼくの生きてきた道のりや、生きかたや、現時点でかかえている痛みや怖さを、うまく肯定してくれていると――都合よく認めてくれていればいるほど、「いやいやいやいや」と、思わず反発や反抗してしまうことが、ほんとうにたくさんある。けど、そんな態度ばかりが出てくるいまのスタンスが妥当なのかは、ずっと謎だ。それも不安だ。

いまの自分がかかえている弱さや欠点、脆弱性が、実は、強みや長所、取り柄であり、いつかそれが輝くときが来る。ちゃんと報われる日がおとずれる。だから思いわずらわなくていい。信じて待てばいい。というふうに、否定的なものとして捉えてしまいそうになる現状を、ほんとうは大切なものなのだと、肯定的に見つめてしまってよいのだと、しっかり思わせてくれる、ともすれば、成果や成功につながるものなんだよとまっすぐ信じさせてくれさえする、そういった物語を、どのくらい、崇めて、神棚に飾って、奉っておけばよいのか、迷う。こころのなかの配置には困る。下手に突っぱねて、実は妥当なアドバイスだったら、それも困るし。

初手反発

いやいやいやいや、という初手反発で臨む態度って、真摯にアドバイスしてくれているひとや、真面目に褒めてくれているひとに対しても、やってしまっていることがあるため、それも、やらないようにしたいとは思っている。逆に、そういった肯定的な認識を伝えたときに、初手反発をやられる側に立つこともあって、それもまた、好きじゃない。というか、残念な気持ちにはなる。ちゃんと褒めて、ちゃんと受け止めてもらえる、っていう状態って、決してカンタンな話じゃないのだよな~、とも思う。

関係値が築けていない間柄なのに、急に褒め始めたら、そりゃ受け容れてもらえるわけもなく、警戒されるのがむしろ当然で、伝わるとか伝わらないとかの話じゃそもそもないじゃん、っていう、根本的なところの問題な可能性は、常にあるけど。