世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年12月25日(水)つっかえつっかえ報告した

報告の時間

業務上での報告の時間があった。が、結論、下手くそだったと思う。まあまあ無様な姿をさらしたんじゃなかろうか。落ち着いた精神状態で、懇切丁寧にわかりやすく話を整えながら、過不足なく報告することが、やっぱりできていなかった。この種の問題はずっとかかえ続けている。ずっと問題視しているのだけど、ぜんぜん解決できていない。

親しく、心を許した相手に伝えるのであれば、もう少し、落ち着いて話せたはずだし、わかりやすい構造化もしながら話せたんじゃないか、とは感じる。うまくできたシーン自体が想像できないわけではなかった。問題のポイントとなる部分をピックアップし、交通整理しながら、混乱を招かないよう、言葉を選ぶ、といった振る舞いを想像することは可能だった。

が、現状の、職場・上司の前では、実現させられなさそうだ、とは思った。難しいだろうなと感じてしまった。緊張するし、あせるし、怖い。いろいろ見えない。混乱しているのは明白だった。うまくやろうとしすぎている、というのは一定あるだろう。指摘や叱責を怖がっているのも間違いない。なにより、どこまで伝えてよい話なのかが、不明だ。というようなもろもろが、歯切れの悪さに、なおのこと拍車をかけていたんだと思う。壁がないならうまくできるシーンは想像できる。が、いまある壁を越えられる図は描けない。

安心できていない

ともかく、総じて、「安心して」話せていないのだった。どうしてこんなことになっちゃってるんだ、とは考えなくもない。原因を突き止めて、打開策を模索してみせないと、ほんとうにどうにもならん、とは考えていた。「安心して話せる」状態にまで、なんとか持っていきたい。どういったルートからであれば、「安心して話せる」境地にたどりつけるんだろう、というところを探り当ててみせたい。ほんとうに、なぜ、ここまで安心できていないんだろう、とは思った。

相手にとっての正解の話だけ

ひとつ思ったのは、報告すべき相手(上司)側が「重大事項だ」と感じるであろうこと(相手が興味を持ってくれそうなこと)(相手にとっての「正解」)以外は、口にしてはならないみたいだ、って思いすぎているせい、ということだった。思いすぎているというか、そういったことが求められているフシは、実際ある。相手の思う軸からズレた話には、耳を貸してもらえず、むしろ上から話を重ねられて、跳ね飛ばされるようなケースも多々あった。そういった空気に、たぶん、どこか、追い詰められている。認知リソースも割かれている。相手の背後にひそんでいる「問題意識」を読み切らないとならない。じゃないと叱責や軽侮の対象になりかねない。ときには、評価だって下がる。それを警戒しすぎるあまり、言葉が、口から出る前に、引っかかってしまっている。

そんなシチュエーションにさらされ続けていると、こちらの問題意識なんて、だいぶ関係なくなってきたりもするのだった。というか、「無駄」な感じになってくる。結果として、ぼくの主観や解釈を、とにかく矮小化したり疎外したりすることが、「正解」、みたいな空気にすらなってくる。

そんなような事態におちいっているのではないか、とは考えてみた。もし、こういう、噛み合ってなさというか、すりあわせのできていなさが、あるなら、そりゃ、軋轢だって生まれるわ、っていう気にもなった。

本来的にぼくが「強く気にするもの」「問題視したいもの」「大切にしていきたいもの」を、わざわざないがしろにし、ときには破り捨てるようなことまでして、相手のお眼鏡に適う言葉ばっかり探っている、のであれば、当然、潤滑に話せるわけもない。つっかえつっかえにもなるだろう。