世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年12月14日(土)しょーもないとは言い切れない

概念の整理整頓

概念の理解・整理に、一定の決着がつけられていると、その概念を使ってひとと話すときに、言い訳がましくなったり、話が長くなったりせずに済むな、とは感じる。落ち着いて話せる。わかりやすく話せる。この概念ってこういう使いかたでいいんだっけな~、って疑問に思っていると、態度がふわふわしてしまい、説得力が薄まる。概念の整理とコミュニケーションを同時並行で進めていると、行ったり来たりする羽目になって、たいへんわかりづらくなる。

ごちゃごちゃいろいろと書き連ねているここの日記ではあるが、こういう「概念の、整理整頓と事前準備」については、だいぶ役に立っている。問題は、整理したい概念が多すぎて、ぜんぜん追いついていないところだ。人事の仕事の話題を最近になって書けるようになってきたが、それはまあ、「人事」っていう仕事の定義や範囲がようやく見えてきたからで、そこの整理整頓にも、数年かかった。やっとちょっと慣れた。

ほんとうにしょうもないのか

ある要素や事柄が、人生における大事なポイントかどうかは、決めつけられない。ただ、おのおのの人生経験の中で「そう見えてくる」だけだろう。だから、ぼくからは「なんで些細なところ気にしてんの?」「大事なのはそこじゃない」というふうに見えてしまったとしても、ほんとうにそれが正しいとは限らない。逆に、ひとからそう言われたとしても、妥当な見解かどうかはわからない。「生物的存在や物理的存在である以上、ここに影響を受けざるを得ない」、あるいは、「現時点での社会背景や技術力を踏まえるなら、ここが肝心かなめにならざるを得ない」というところもあるみたいで、広く共有できるポイントもあるのはたしかだが、各自の人生経験に立脚する判断も、たくさんあるな、って感じる。

見えている世界だけでどこまでどう言えるか

得意・不得意も、できる・できないも、ひとによってぜんぜん違うわけだから、そこから見えている世界の(困難さややり甲斐の)景色もだいぶ異なっているはずで、それを前提にして、「ここが大事なんだ」って、おのおのが思っているはずなんだよな~、って思い直した。

「しょーもないこと気にしてんねえ」とか、たまに言いたくなっちゃう場面があるし、言うだけ言って、相手が受け容れてくれたかのような空気になったりしたら、内心、歓んでしまったりもするのだけど、それもどうかな、ってあらためて思う。安直に口にしてよい台詞でもないんじゃないか、とか言いたくなる。

けどもちろん、「自分の人生経験の中から、学びを得て、なにが大切かを、ひとつひとつ学び取っていく」っていう振る舞いだって、決して軽んじられるものでもないはずなので、うまく両立するのは難しい。ぼくの中ですべて収めておいて、ひとにはみじんも発信しない、という工夫で、一定のトラブルは回避できるかもしれないが、それが適切なやりかたかどうかは、また別の議論があるだろうし。

ひとと接するときに、調子に乗らない、独善的にならない。相手としっかり前提を確かめあいながら、一方的にならないよう、偉そうな言いかたにならないよう、議論や相談として、話し合う(そうすれば、価値観を押しつけるような問題にはなりにくくなるよ)、って話ではあるのかな、とは考えた。