世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年12月03日(火)動きの中でしか見出せないものと、文学や芸術

小説という運動の中で

言葉で「これがそうだ」とまっすぐ指さして語られると成立しない。わかりやすく解体して整理して説明されたところで伝わらない。ただただ行為によって示されるのみ。類例としては、いくら「ぼくはやる気があります!」と語ってみせたところで、実際にまったく動いていないなら、やる気があることにはならない(やる気があることにはできない)、みたいな話なんかがあるかと思う。あと、「ぼくは謙虚だ」と語るとそれ自体が謙虚でない証になってしまうとか。「こういう話題には触れないのが正しいと思っている」と触れた時点で論理が破綻してしまうとか。

こういうふうに、"運動によってのみ意味づけられるもの"があるのであれば、研究書や指南書では(真の意味で)示すことができず、文学、小説、詩、物語、といった種類の言葉の使いかたによってのみ、描けるものがあるのである、っていう切り口も、多少は理解できるような気がした。補助線にできる気はする。

相互作用で意味が浮かびあげる

「愛」とか「親切」とか「善」とかも、ひと言では(ことばだけでは)たぶん示せない。「これこそがそれなのである」と、たとえ偉そうに図示してみせたところで、きっと、実用面的なポイントからはどうしてもズレてしまうに違いない。おのおのが心の中に築きあげてきたもの同士を、響き合わせながら、浮かびあがってくるのを待つしかないものがあるみたいだ、って思ったりもしている。ぼくとあなたの相互作用の中でしか見つけられない。ぼくだけが語ってもダメ。あなたが独り合点してもダメ。こういうものが、文学、小説、詩、物語、芸術や美術のなかで、語られうるものになっていくんだろう、って考えていた。

劇場版ピングドラム

『輪るピングドラム』の劇場版、「RE:cycle of the PENGUINDRUM」前後篇を見たのだった。前編「君の列車は生存戦略」。後編「僕は君を愛してる」。止まらなくなって、一気見した。テレビ版同様、最高におもしろかった。が、どう語ればよいかはわからない。渋面になった。運命とか愛とかペンギンとか日記とか罪と罰とか銀河鉄道の夜とか、単語をひろっていきながら、なにがしか言うことはできると思うけれど、結局、ズレから逃れられない気もする。この物語の"運動"の中でしか示されない意味・空気などがあって、そこをどうしよう、とは、あらためて思った。切り離せない意味と意味の癒着みたいなものが、あまりにも心地好くて、そのせいで好きすぎる作品なんだけど、とも思った。

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penguindrum-movie.jp