世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年08月14日(水)出鼻をくじかれた連休明け

初っ端からその対応はなんなのか

連休明けの出勤日。連休中、夢中になって遊ぶような時間が取れたこともあって、気分転換は図れていた。硬直化していたまなざしが解きほぐされ、世界や文脈の広さが、ふたたび、視界に入るようになっていた。けっこうよい気分だと自覚できる時間が、朝にはあった。ひさびさの出勤のあと、すぐに、その出鼻をくじかれたため、こうして「朝の気分のよさ」を振り返ってみると、ほどよく嫌な気持ちにはなるのだが、しょうがない。ちょっとむなしくはなっている。

一見、単なる性格の悪い振る舞いに見えたとしても、相手に訓練させるためなんだ、みたいな思惑のもとでおこなわれているケースも、まああるんだとは思う。相性の悪さや手際の悪さによって、陰険なだけに見える場合でも、そうでないケースもあるだろう。見定めるのは難しい。勝手に決めつけることもできない。現状の上司がおこなう、そういった(陰険っぽいだけだなあとも解釈できる)行動の目的は、以前からずっと謎のままだ。機嫌の問題というだけの可能性ももちろんある。確定させる術はない。たとえ、もし、問い詰める機会なんてものがあったとしても、「相手のためにやっていたのだ」というふうに言語化されるだとも思える。

むろん、実際にその通りなのかもしれないが(効果のほどはともかくとして、それを目的とした行動ではあるのかもしれないが)、しかし、ただの誤魔化しの可能性だってある。あるいは、問われた瞬間に、自分に都合のよいように、無意識の再解釈システムが駆動を開始して、新たな真実を捏造するような可能性だって当然ある。遡及的に、「そういうことだったのである」と再解釈するような、自己欺瞞的な振る舞いって、人間の基本仕様っぽいし、とも思う。

適正な精神状態を待っている場合でもない

というふうに、初っ端からやる気の削がれる一日ではあった。やる気やモチベーションといった「活動を誘発してくれる」精神を、ただただ待ち続けるのは、ほんとうによくないっぽいな、とは深刻に思えるようになってきた(遅いよとも思うが)。情動待ちの姿勢だと、いろいろ間に合わなそうでもある。前向きな気持ちなんてまったく湧いてこない前提で、無機質・無感動に動ける仕組みを組み立てるのが、適切なんだろう。少なくとも、精神状態にかかわらず動けるようにするための、肉体・精神コントロールのコツくらいは、模索しておいてよいんじゃなかろうか。こうするとよいよ、っていう助言もいろいろ見かけるし。