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日記を書きます

2024年04月01日(月)暗黙知に気が散っている

暗黙知に気が散っている

業務日報。あらたな追加人員に対して、組織や業務、注意点の説明をおこなった。「これは話してよい」「これは話してはならない」といった区別が、あいかわらず曖昧で、今回はそれの最たるものだった。空気を読まされるにもほどがある。「言質を取られてはならない」「訝られてはならない」といった厳格さが求められる場面すらあって、その塩梅も難しかった。理由となる背景も又聞きに近いため、余計に難度が高まった。もう怖いといってよいレベルだった。とはいえ、流石に時をへて空気がつかめてきたところもなくはなく、それに準じる形で、ある程度の説明はおこなえたと思う。ほがらかな人格には見えた。が、猫をかぶっている可能性は(けっこう)ある。

会社の話をする際、「空気」「文化」「風土」「印象」といった単語を頻出させていることには、気づいている。あんまりよい傾向ではないだろう。空気がつかめていない・文化に馴染めていない、といったフィーリングばかりに目を向けさせられるような環境は、きっと、あんまりよいものではない。言葉にされていない範囲が大きいのはよくない。なんとなくで仕事してるんかい!とツッコまれてもしかたがない。

とはいえ、暗黙知(言葉でない領域でしか示せないもの)の重要性というものも、また、ある。あるはずである。言葉であぶり出すことばかり考えていればよいものでもない。もちろんそこは踏まえたい。

物事のキモに近づけば近づくほど、言語化が難しくなりがちなんだとは思っている。複雑になり精緻になり、微小になっていくためだ。見づらくなっていく。言葉で伝えるのが不可能レベルな事柄だってありうる。そんなふうに、言葉の限界を超えて「語りようがない」ところまでいってしまった事柄については、暗黙知として、つまり、空気や文化によって、示してみせるしかないんだろう。たとえ多少の曖昧さはかかえるとしても、空気や文化で示すしかないことがあるんだと思う。そこにも価値がある。すべてを言語化しよう、すべてを構造化しよう、すべてを形式知にしよう、という指針は、無理だ。

そういった状況は理解したうえで、「とはいえ言葉にしてなさすぎる」と思ってはいるのであった。「暗黙知だから」ということをたとえば言い訳にし、空気や印象の話ばっかりし始める、という状態は、やっぱりよいものではない。

核心に近ければ近いほど「言葉にしづらい」のであれば、逆に、核心でないところは、できるだけ「言語化されていたほうがよい」はずじゃん、というふうにも考える。むしろ強く思う。あと、いくら「雰囲気で示すしかない重要な領域」があるとはいえ、だからって、雰囲気ばかりに所属者の意識が割かれがちな環境がよいものなわけないじゃん、という判断でもある。気が散っているってことだぞと思った。