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日記を書きます

2024年02月16日(金)基準を受け容れすぎた日

普通の水準

ここのところ意識しがちな苦悩や苦痛を、根っこから一閃してみせる"泣きどころ"を見つけようとするなら、"普通はこれくらいできるはず"という「水準」の想定が、しょせんは、個人個人における夢物語に過ぎず、そんなもんを想定すること自体が無意味、ってところを探るべきなんだろうなとは思った。別にそんなものを想定しなくても、できていること/できていないことを端的に切り分けて、是正していけば、話は進む。「普通の水準」なんていう"まぼろし"を脳内にかかえて話す必要なんてないというか。わざわざそんなものを気にしながらやりとりする理由もないというか。

接する相手の中に、そんな曖昧な「普通の水準」感を押しつけてくるひとがときどきいて、けれど、相手の感じている「普通の水準」なんて(特にこちらから見たら)謎なので、こっちはこっちで、どんな規模感のことを言っているのか見定めようと、躍起にもなるし不安にもなる、みたいなことが起きているんだと思う。けれど、そんな「普通の水準」なんて概念を持ちこまなくても、別に、滞りなく仕事を進めていくことはできるでしょ、気を重くしてやりとりしていること自体が無駄だよ、という話にはできるんじゃないかと考えた。

相手が見せた「普通」感、信用しすぎ

いや、うーん、あと、別のレイヤーで考えると、相手が「普通」という雰囲気を押しつけてきたときに、それを素直に受け容れて気に病む、ということ自体が、そもそもいらんやつ、という考えかたもあるな。

いまの仕事が(当初は)未経験のものだったため、少しでも手がかりを得ようと、耳にした話をどれも後生大事にかかえてしまっていたわけだが、その中にまぎれていた「普通」感まで、純朴に受け取りすぎた、というか。頭を使わず受け容れすぎた。教師役に「普通ならこれくらいできます」と言われたとしても、その中の「普通は」なんて、別に無視してよい、せめて軽視してよい、っていう指針もあってよいんだと考え直した。