世界は称賛に値する

日記を書きます

20230809 無音の話

水曜日

渋谷駅を降りたあと職場に向けて歩く。ほどほどの距離があるのでイヤホンでPodcastや音楽を聴いていることも多い。が、今日は気分じゃなかった。なにも聴かなかった。そういう日もある。基準は不明だ。耳になにかを付けるだけのことが変に重く思えたりもする。気持ちが妙にあせっていてそれどころじゃない日もある。なにかが耳に響いていると、そちらに気を取られるのは間違いない。声は特にそれが顕著だ。聞こえてくる言葉に意識が向いて、視覚や聴覚がおろそかになる。けれど今日はなにも聴いていないぶん視覚や聴覚が鋭敏だった。むしろ、目も耳もまわりに向かせられるな〜、と考えて遊んだ。明らかにこれまで視界に入っていたはずの看板をたとえば見つめた。この看板に意識を向けるのは初めてだし、いま、こうして、なんとなく目を向ける瞬間がなかったら、これがあることに、今後も気づかないままだったろう、なんてふうに脳内を動かしてはしゃいだ。

月曜、火曜、水曜と、三回目(週基準)の勤務日を迎えて、嫌な印象は少しずつ落ち着きつつある。なにごともなかった日が連続すると、流石に慣れて、落ち着いて、気も楽になってくる。楽天的が発動する。気分はよいけど必ずしもよいこととは言い切れない。こういう気が楽から油断に繋がりミスの発生率が高まるからだ。そう思える経験則は積み重なってきている。安心と油断は紙一重だ。あんまりよくない世界観の塗り重ねだなとは思う。うまく幸せに繋がらなさそう。無化できる形状の世界観も構築してよい気はする。

今週の平日

今週は金曜日が山の日(祝日)で、週における勤務日が少ないため、楽ちんだと感じるが、なんで「週単位」で見ちゃうの?見なければならないの?とはこういうとき絶対思う。日記でこういう"フレーム"の話に触れるときは、ほぼ間違いなく、その「その枠組みを使わなければアカンのか」という部分を睨みつけていると思う。日記を書きたい≒こういう構造を睨みつけて(さらには)怯ませたい、という意志があるのかもしれない。そう見做すことも可能だと思う。そういうところに喧嘩を売りたいために文章を書いているのだとか言えてしまいそう。 なんにせよ、必ずしもこういう見かたをしなくてもいいんじゃないの?とツッコめる状態のときに、無意識に、あるひとつの見かたを採用していたら、できるだけその裂け目に指を突っ込みたい、癒着を引き剥がしたい、一回リセットして選び直せるニュートラルな立ち位置を形成したい、とは思いたがっている。そこに気づいていることをアピールしたい欲もあるんかな〜。そういった気づきに美しさを見ているところはたぶんあるし。美しさに気づいてますよって言えるのは気持ちよいし。