世界は称賛に値する

日記を書きます

20230810 頭脳の話

きつねのよめいり

ほんの一瞬だけ雨が降った。天気雨だった。狐の嫁入りだ。すこしだけ顔に水滴か触れて、数分も持たずに終わった。日記にこれを書き記すとき、どういう言葉を選びうるかな〜と思いながら眺めた。贅沢な思考だった気もするし貧相な思考だった気もする。 なんらかの制限下にある縛られた形式的な思考を、貧しいと捉えてしまいそうにもなるけれど、必ずしもそうじゃないだろとも思う。簡単に「日記」に直結させる、思考停止気味で、自動的および受動的で、短絡的な、頭の働きを、つまらないと思うこともできるし、けれど日記という概念と習慣があたえてくれたひとつの厚みだと思うこともできる。紙一重だし自由だ。別に「日記」に限った話でもなくて。そしてぼくはほんとうに日記という言葉が好きじゃのうとはなった。まあ好きである。なんかよいよね。

脳内のぞき

頭の中、脳内、といった単語の登場率は高めだ。視線がいつもそのあたりの内側に向いている空気はある。具体的な世の中の出来事を書いているときもあるが、頭や脳、意識の中を覗いて、そこに映し出されたものを描いている感覚である(ここは過言かも)。もっと外側に目を向けたり軸足を置いてみたりしてもよいのでは?と考えてみた。そのほうがよりよいということではなく、たまには気分を変えてみてもよいんじゃなかろうか、という提案として思いついた。ほとんど同じことなんじゃないの?という疑念はある。物理的な世界をピュアに見つめることと、物理的世界の写し絵が描かれたモニターを見つめること。些細な違いはあるだろう。が、些細な違いが別の姿をもたらすこともある。それらが別の姿であると気づける目聡さを人間は持っていそうなフシもある。