過剰
描写は常に過剰だ、という話を読んだ(『新作文宣言』)。なにかを言葉にしようとするとズレる。そんな簡単にピントは合わない。なんとなく違和を感じて都度都度の調整を試みることになる。行ったり来たりする。そのときの挙動、震動、動的なものが、ことばのおもしろさ、言葉と世界を向かい合わせようとすることの楽しさの一つなのかな、と思った。リアルとリアリティのせめぎ合いとか。眺めていてもおもしろいし、その身で感じるのも気持ちよい、というような。
動的なものの理解
概念理解においては、次第に"動的な"面を理解していかないといけなくなるからな~、とは考えている。子どもの頃にはうまくつかめておらず、あるときに気づいてかなり驚いた記憶が残っているため、けっこう印象深くそのことを思っている。
最初はまず静的な事柄から世界を捉えていく。瞬間、すがたかたち、流れる世界のうちから"一瞬を切り取った写真"のようなものによって、脳内にコレクションをまとめていって、その後それを踏まえたうえで、動的なもの、挙動、流れ、力学、時間、いわば"動画撮影"したなかに見つけられる構造や反復、といった事柄を並べていくことになるのかな、なんて思っている。
図形の面積・体積を求める計算式を覚えてから、加速度のような運動の計算式を覚えていく、といった比喩も思った。