世界は称賛に値する

日記を書きます

音を裂きたがる12月4日日曜日

社会

小学生の授業の中で特に興味を引かなかったのは「社会」であった。長じても「歴史・地理・公民・倫理」あたりに対する興味は薄いままだった。なんでやねんと今なら思う。むしろ一番面白いところじゃん!くらい今なら言いかねないからだ(いやでも国語も数学も理科も捨てがたいので言わないが)。意識して前向きに解釈しようとしなくても素直に面白さを感じられるようにはなった。なにが変わったのかな〜?と考えてみることもある。いろいろ変わってくれた理由はあると思う。そのひとつに、人間の営みの「詳細」を知ったこと、がありそうだ。人間が達成できたこと、人間が実現できていないこと、人間の行為・精神における難しさ、人間の様々な挑戦と記録、人間がいろいろやってきた経緯、といった、人の上限と下限、多様性、文脈などの「詳細」を知った結果、人間の営みってめちゃくちゃ面白いね、と思えるようになった。人間の枠組みを知り、それを下地にすることで、人間の工夫や人間の挑戦、人間の悲喜交々が、きちんと想像できるようになった。そして、想像できたらほんとうにとても面白い光景が描けた。逆に言うと、子どものころは「人間ってけっこうなんでもできるんでしょー」くらいの雑な理解があったせいで、いちいち細かい事例とかいらないです、と思って切り捨ててしまっていた。

っす

「です・ます調」も「だ・である調」も、自分にとってはあんまり自然な感覚ではなく、強いて言うなら「っす・ッス調」が性に合う(ひらがなとカタカナを別にしたけど、なんかここ、しっかり区別したくなった。無自覚な線引きがあった)。好ましい言葉のリズムがここにあるんだとは思う。でもまあ、多少使いづらくはある。リズムが性に合うだけの理由では推しきれない難点も感じている。使ったとき相手に与える意味や印象においての使いづらさ(なんか文化的に手下感とか軽薄感にまとわりつかれているとは思うので)も感じるし、単発リズムとしては好きでも連発リズムで考えたらあまり好きではなくなるのではないか、という点でも使いづらさ(たくさん重ねると流石に味が濃くなりすぎてしまうのではないかという怖れ)を感じる。