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日記を書きます

背伸び絵空事3/7火

背伸びいさめる問題

安易な背伸びは自己評価のピントを狂わせる。そして、ピントが狂わされた自己評価は過度なプレッシャーを発生させがちである。でもって、そういう余計なプレッシャーはウソを(誇張や虚偽を)産み出しやすくなる。時にはそのプレッシャーがその人格を押し潰すところまでいくことさえあるだろう。といった流れがあるんだよな~、と、あらためて考えていた。

“背伸び”を諫めることによって、そこにあるリスクを予防することができる。ときどき”背伸び”そのものに対しての当たりが強くなるケースがあるのはそのためだろう(シンプルに嫉妬で出る杭を打っているだけとかも当然あるだろうけど)。”背伸び”そのものにデメリットがあるというよりは、その後の分岐におけるデメリットの割合が高いので、最初から”背伸び”を叩いておこう、という構造である。背伸びすることのメリットだって当然あるのだろうけど、デメリットを強調しておく必要なシーンも多々あるのだと思う。

わきまえる問題

歳を重ね、経験から身の程を知り、分をわきまえる。足るを知ることで若気の至りのような大言壮語を吐かなくなる。ただただできることだけをやるようになる。こういったところの構造を最近は意識する機会が多くて、考えていた。問題事例のレイヤーがいろいろ重なっていて、ここの問題、かなり混乱させられるなと思った。

例えば、年齢によって考えかたを変える必要がどれくらいあるのかという問題がある。とはいえ経験によって(情報量によって)判断の尺度は間違いなく変わってくるから未経験と熟練者じゃやりかたも変わるだろう(なので同じ結論が出てたらそれはそれで変)問題もある。絵空事と現実的の割合の問題。あるいは目標が空想や妄想におよぶくらい高いときの問題。口先だけと実践がともなうときの違いの問題、準備を入念に行なう態度と安易に済まそうとする態度の問題、現実的であるか、そして、身の丈に合っているかどうか、なんてことがほんとうにわたしたちにわかるのか(このあたりの判定は、この現代の、いまの居住地の、文化や常識を下地にして行なうことになるわけで、それがほんとうに正しい指標なのか)という問題、等々だ。

言い訳大会問題

かつて大口叩いて絵空事を語っておきながら、結局、たいした努力も挑戦もせず、でも(挑戦してないので)”負け”てはいないので、まだ可能性はあるだろう、とか自分勝手に思っている頭脳の側面が今もある。このあたりの思考に対し、年齢なども踏まえて、いいかげん分相応のところでちゃんとやれよ、と思うようなことはやや増えた(そういった視線で見られている光景を勝手に造り上げて、そこに圧力を感じたりもしている)。

が、それはそれとして、だからってなんもやらなくなる(しっかりやれることだけやる)みたいな収めかたもどうなん、とは思うのだった。そこが落としどころだと決めつけるのはなんか違うじゃん、とまでは言えないにせよ、別にそこを落としどころにしなくてもよいんじゃないの、とは思える。昔は偉そうなこと言ってて結局なにもしなかったので今後はもう分をわきまえて黙ってやれることをします、は別に最適解ではないよと思った。このあたり、下手な思考進路を取るとほんとうに言い訳大会になってしまいそうで怖いけど。でも分解して整理できるところはしておいてよいはず。