世界は称賛に値する

日記を書きます

1月18日カッティング

昨日

ゆうぱっくの不在届が入っていた。週末の日付で再配達依頼を行なった。とにかく配達関連にはめちゃくちゃお世話になっている。配達してくださる方たちには感謝しかない。なるたけ再配達が発生しないようにしているがなかなか難しい。どうしても受け取れないことはある。ほかになにかあったかな。この日記は翌日に書いている。昨日の出来事って意外なほど思い出せないんだよなあ、なんて思いながら書いている。日常的な出来事に対する意識が薄すぎるのかな~。あるいは、時間を区切らないような習性が染みついているんだろうか。時間なんて区切らないほうがよいと人格の一部が思っている可能性は高い。区切ることが必ずしもよいことではないだろとは思っている。今日と昨日と一昨日くらい混ざっちゃえばよい、と時には思っている。分けても意味ないじゃんという考えかたはあるからなあと思っているのだった。今日と昨日と一昨日の記憶を区切るかどうか。区切ったほうが便利だという考えは当然あるだろうけど(仕事や効率というものを称賛する思想や主義の世界であればなおさらそうなるだろうけど)、いつでもどこでもそうだというわけでもないだろう。そういう便利さが常に称揚されるべきってことではない。そのあたりに対する曖昧さやいいかげんさが称揚される世界観だって並行してあってよい。食事のことは思い出しやすいなと気づいた。夕飯は焼きそばだった。頻繁に食べている。今日の焼きそばはかなり美味しかった。違いは謎だった。風味? あと仕事では面接と面談をした。面接と面談は似たようなものだが社会では別とされている。検索すれば違いに関する話も出てくるだろう。ちょっとした性質や志向の違いをしっかり見出して「別のものだ」と定める細やかさは、だいぶ好きだが、それだけがすべてじゃないとも思う。面接はこういうもので、面談はこういうものだよ、違うものなんだよ、だから、それぞれこういうところに気をつけるとうまくやれるでしょう、って言ってみせるのは嫌いじゃないし、便利だが、これもまた「便利だからって(便利であることが素晴らしいからって)そういう便利さ優先の見方が”正しい”と押しつけてくるつもりじゃないよね?」って言いたくなる。便利とか効率とかに踊らされてるのってどうなんすか~とは思いたくなる。知性による細やかさを軸にした眼差しだけでなく、おおまかさ、曖昧さ、大雑把さ、といったものを使った眼差し、世界の受け止めかたも、称揚したい。まあケースバイケースだよね、とも言っておきたいけれど、ほんとうはそんな立派なことでもなくて、うまいこと気分気分で混ぜこぜにやっていくしかなさそうである。一極で硬直しすぎるよりはたぶんよい。