世界は称賛に値する

日記を書きます

月曜日の始まり

▼▼評価されて嬉しい自分がいることがあるんだから「誰かを評価する」って行為を「悪しきもの」だと見なしきるのは難しいなー。って思っていた。ので、悪しきものだと見なしたいと思っているのだなー、と思い直した。見なしたいのは避けたいからだろう。あえて悪しきところを採り上げてみせることで避ける理由をまとめあげて「避けることを」納得させたいんだと思う。納得させる。納得が行動を変えていくという思想があることもわかった。▼▼誰かを評価する、っていう行為は、可能な限り優しく慎重で丁寧かつ柔軟に扱えないと誰かをあっさり傷つけたりしてしまうものである、っていう想像および経験則が、避けたがらせているんだろうなーとは思う。で、傷つけたくないって思うのは責任を取りたくないからかな? ってよりは、責任を取るのは大変なので確率と量はできれば減らしたい、ってところか。▼▼思いやり、と、自己都合や自分勝手、が、なぜか巧いこと合致してくれちゃったりすると、あうあうおろおろしてしまうというか、落としどころを突然見失って行動指針がわからなくなってしまうところがある、ので、整理の中心はここかな、って最近は考えている。自己都合や自分勝手を起点にして「優しくする」という行為をしたくない、って思わせているものもあるみたいだ。好きじゃないかもだな。

読ませていただいて嬉しいって少しでも伝えられればと思うのですよね……。

→ 「もし頭に浮かんでから行動に移すまでの間に失敗してしまったら、運がわるいで済ますことはむずかしい。頭に浮かんでから行動に移すまでの間、その時間の責任が、自分にあるって考えになりやすいから。考える余地が生まれるから」

→ 「どんなに活発に活動しててもそれではダメだ。「根をはれ、幸福になれ」とそのブログの主は書いた。たぶん、どこから手を付けていいかわからないんだ、というのは甘えで、ひとつひとつ、できるとこから、日常生活を整えていくのが大切だと、今は思う。 引っ越したら、そんなふうに生きていこうって決めてた」

→ 「絵画は紙や布に絵の具を乗せた痕跡です。痕跡自体に価値なんてありません。 価値のないものに「人間の想像力をふくらませる」という価値が加えられているのです。 つまり、芸術とは、想像力をふくらますための起爆剤が、いくつもしかけられていなければならないのです」

→ 「ただ、どこかの場面で、決断したのか逃げてきたのか、自分自身に突きつけられるときが来るのかもしれない。来ないかもしれない」

→ 「でもその予防線の内側になにがあるのかというと、それもやはりいつかの、懸命さだったりする。ふとした折にぶわーっと、いろんなことを思い出すタイミングというのがあるけれど、それは思い出すたびにまるで今のことのようで、まぶしい」

→ 「こわさというのは、「散文を使うと意味ありげに見える」ということで、それはわたしが普段、ある種の文章に対して感じていることとかなり近いのではないかと思った。見目きれいな、耳障りの良い単語を並べて作られた散文のようなものは、それが「ただきれいなだけで中身のないもの」であっても、すかすかであるがために解釈や想像の入り込む余地が大きく、なんだか意味ありげな、すばらしいもののように見えやすい」