世界は称賛に値する

日記を書きます

月曜日の始まり

▼▼印象や感覚の記憶は、時間が経つと容赦なく形骸化していって、結果として、適切に適用できなくなる。巧く当てはまらなくなる。つまり、取り出したばかりの新鮮な味わいじゃないと駄目なのだろう。と感じている。▼▼なので、記憶するなら、印象や感覚の記憶を取り出せる──取り出すための素材、を、記憶しておいて、問題起きたら、起きるたびに、毎回、素材から「印象や感情の記憶」を削り出す、っていうような形式で、新鮮さを維持しつつ対応しておかないと駄目なのかなー、って考えてみた。
▼▼起床時刻は午前7時半。勤務は休み。若干怠惰に向かい始めている印象なので巧く規制しよう。回線を光に変更する予定がある。問題点がないといいなあと臨んでいる。昨日は『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』を読み始めた。思った以上に変な小説だ。

出逢えてよかった文章群の記憶用インデックスであり、自分風ニュースです!

→ 「でもしかたがないよね、僕はもう恨みがましさの上にできあがってしまったんだから。だからせいぜい創意工夫を凝らした、すばらしい罵詈雑言を生産しようと思うよ。悪口は僕の重要なエネルギー源なんだから、そこいらにある粗雑な言い回しを使うわけにはいかない」

→ 「愛と死の不意打ちにはとんでもない何かがあるようには思う。つまり、私が固執している日常にどのような意味があるのかは本当はよくわからない。が、恩恵であると思う」

→ 「1分〜5分の隙間時間を1日20回見つける」

→ 「あと一般的なことの言い合いはカードゲームっぽくて傍から見てるとちょっと面白いね。とか思った」

→ 「しかし、そのような、あからさまに実験的-挑発的なやり方ではなく、ひっそりと、ある一文字が使われないまま小説が書かれ、しかもその文字の回避は作者にとっても無意識に作動する抑圧としてなされ、作家にさえ意識されてもいなかったとき、その小説を読んで、特定の一文字の不在を感知することが出来るだろうか(実在しない文字が一つ追加された時は、その異物-過剰はすぐに感知されるだろうけど)。 いや、それはちがうか。そうではなく、その小説の「登場人物」が、その文字の不在に気づくことが出来るのだろうか」

→ 「いやまさにそれこそ、(人質事件以降)一般的に理解されている意味での自己責任ですから!この考え方が身体に染み付いてしまうと、どんな体験談であっても、その人の心を一ミリも動かすことは出来ない。なぜならば、すべての悲劇的な体験談は、「適切なときに適切な判断を行わなかった話」というアレゴリーとしてしか理解されなくなるからだ」

→ 「例えや寓話を持ってくるのはいいが、明らかに「自分=良い側」「相手=悪い側」に役割を振り分ける上に「なぜその役割なのか」は解説されないケースがある」

→ 「では、現在の人類は過去の人類より真に複雑に考えたり感じたりしているかというと、なかなか微妙で、たとえば「経済」といった言葉を使うことで相当複雑なことができるが、たとえば「蝶」という言葉を使うことで、蝶が舞うのを実際に見る以上に複雑なことができるのかというと、ちょっと疑問だ。あるいは自分の「舞った」という体験を「舞った」という言葉で置き換えられるのかという疑問」