世界は称賛に値する

日記を書きます

水曜日の始まり

▼▼文章にしたら若干すっきりするとかある。▼▼けどなあ。▼▼けど例えば、書くことでほんの一ミリだけ救われる人がいる、のならば、書けないことで一ミリ救われない人がいる、のだよなー。見逃しちゃ駄目、忘れちゃ駄目、って思った。改めて自戒しておく。
▼▼起床時刻は午前5時。勤務開始は午前8時。修繕の立ち会いのようなものがある。

記憶インデックスと自分ニュース。出逢えて嬉しく感謝も思って記録しておきたいです。

→ 「鈍い感性鈍い感覚でどれほどのことが表現できるのかと自分を叱咤したくもなるし、自分の感覚を信じないでどうするのか、他者の感覚を借りて、借り物の感覚でそれで自分は満足するのかと、自分の言葉で語っているのか、どこかで見た誰かの言葉を借りてきているだけではないのか自分自身に問いただす必要性を感じるときがある」

→ 「わたしの欲しいものというのは基本的に小説やマンガであり、つまりは他人から与えられた面白さである。他人から与えられた面白さに依存しているからお金がかかるのだといえる。自分で、自分の楽しさを作り出すことが出来れば、お金はかからないかもしれない。たとえば、小説を書くとかして。でも今はそのことはいい。欲しいものよ空から落ちてこい!」

→ 「ただこの「正当化」は、自分が本当は正しかったのだ、とあとから理論をこじつけることではなく、そのとき自分がどういう意味でどういう脈絡で発言したのか、を明らかにしていく作業ね」

→ 「はじめた行動をだらだらとつづけて惰性化して、惰性化がいくらか続けば慣習になり、それが広がれば伝統になるのではないかと。伝統化まではいかなくとも、慣習の実現まで行けばそれだけで十分に日常化につながる。日常化とは、すなわち無意識における「行為」を促す圧倒的な力だともいえよう」

→ 「組織集団が配布する論理を情報転写した個体が、その情報を自分の世界として肯定したとき、その論理内での振る舞いを行動化せしめて個人を集団運動の一部として組み込む。その個人に世界観として肯定させる力として、聖性と日常性の二要素があり、日常的なものは肯定として聖なるものとなりながら、肯定された聖性は日々の繰り返しを体験的に記憶し続ける個人から日常性として認知されるようになる」

→ 「言うまでもなく、ご先祖様を大切にするというのはでっかい墓を建てるとか戒名にお金をかけるということではなく【いずれもせぬのがおれカネゴン】、自分を外から見ている誰かというものを常に意識する、そして自分でできることなど高が知れているという意識を持つということだったりする」