世界は称賛に値する

日記を書きます

説明することと描写することの現段階の考え(また考えてる)

▼▼現象や行動がまず最初にあって、で、現象や行動を見て、人は「解釈」する、で、解釈することで意味が出てくる。いわゆる「心理」って奴も意味の亜種だろう。聞いた言葉や見た行動から相手の心というものを「解釈」する。あるいは自分の心さえ同じかな。
▼▼という構造があると前提してみて。
▼▼原初的かつ源泉的なところにある「現象」や「行動」を描くのが「描写する」ってことで、解釈した結果である「意味」や「心理」を書いてしまうのが「説明する」ってことなの、かな? って形を考えてみた。説明しないで描写せよ、って言われがちな小説的技術論についての思考だ。▼▼意味や心理は「自分で見出したと思える」ほうが「強く実感できてしまう」ので読み手に「解釈」させるように書け、ってことなのかな、とも最近は考える。▼▼意味を押しつけられることの歯がゆさや苛立ち、解釈の余地をあえて残すことで得られる豊潤な世界の拡がり、あたりのことも考える。まあ、わかるはわかる。
▼▼説明、を、更に解釈する、っていうのはできないのかな? っていうことを、わりと時偶考えるのだけど、整理できてなくて、絡ませられなかった。再考しておこう。