世界は称賛に値する

日記を書きます

水曜日の始まり

▼▼送別会がある。別離的な状況は哀しく描けすぎるから好きじゃない、とか思うこともあるかな。状況に酔うのが怖い、っていうのが背後に潜んでいるとは思う。潜る距離を伸ばすと、正確な判断ができなくなりそうなのが嫌なんだー、に辿り着きそうでもある。
▼▼正確な判断って何やねん、なんて、問いを繰り返すこともできるけど、実際的な話として言ったら、判断結果が適切かつ妥当で難を逃れたことがあったり、不適切で勘違いで恥ずかしい思いをしたことがあったり、するのだから、判断に正しさというか正確性を求めるような姿も、まあありかなと言える。▼▼偉そうである。支配者か? けど、根源的かつ究極的には自分の支配者たる者は自分だけなのでかまうまい、という発想が浮かんだけど、言葉に酔ってるだけかなーと感じた。ほら酔うの駄目じゃん、で、以下螺旋構造。

感銘とか簡単に言うのは甘めかもですが、憶えておきたいと思った文章の記録です。

→ 「実際に、様々な意味で世界が激変しているような時代に、あたかもそんなこと眼中にないかのように「作品」の話ばかりすることは、人によっては「誠実ではない」と感じるかもしれないとは思う(勿論、ぼくはそうは思っていないし、そんなことはないという話しをしていたもりだ)」

→ 「ツッコミ入った時に認めて開き直るのはまあアリだとは思うんだけど、そういうのは概ね、そこに至る思考過程とかツッコミ入った部分への想像(再思考)とかがゴッソリ抜け落ちてるんだよなー。あとわざわざ「目の前に現れてくれた人」に対して開き直ってるって事実がすげー軽かったり」

→ 「最近の演劇が(そしてたぶん演劇にかぎらず)、速度を必要としているのは明らかだと思います。少なくとも、速度の力を借りることで、観客をどこか別の場所へと連れていくための誘因力を得ている。ところがチェルフィッチュのこの作品は、まったく速度を必要としていませんでした。というよりむしろ、速度がもたらす幻惑とは別種の、速度を失った〈あいだ〉のような場所に萌すもの、を追求していた、あるいは信頼していたのだと思います」

→ 「どうやれば打突斬撃の蔵する巨大なエネルギーを解放しつつ、そのダメージを「放電」するかという技術的問題をずっと考えてきた。断片的にわかったことがいくつかある。一つは「手の内」が大きく関係していること。手の内の締めを変えることで、どうやら剣の斬撃のエネルギーは方向を変えるらしい。剣の場合は「物打ち」という、切っ先から三寸ほど下のところが最大の力を発揮するポイントなのであるが、そこにエネルギーは集中している」