世界は称賛に値する

日記を書きます

火曜日の始まり

▼▼誰かの眼を気にしてしまうことを「媚びる」と安易に言語化してしまうのは駄目だろう、という結論はとりあえずあるかなー。混乱したけどここは書いておくとする。醜悪な媚びもあるだろうけれど、言うなれば、美しい媚びだって想像可能だよねえ、と思う。
▼▼起床時刻は午前8時。勤務は休み。週間少年ジャンプが楽しみすぎる日々だなー。

昨日はこんな文章を読ませていただいて、記録しておきたく紹介交えたい感じです。

→ 「たとえば、「役所のサービスが行き届いていない」ことよりも、「役人が定時に帰っている」という部分に、《怒りを感じる》みたいなお話。 たとえば、「絵が魅力的でない」ことよりも、「作成時に背景をトレスして描いている」という部分に、《怒りを感じる》みたいなお話。 他人の手間とか苦痛とかの「犠牲」を 「何よりの宝物」「自分の幸福」 として感知できる能力」

→ 「ザオラルを唱えることのメリットに、数的有利が挙げられます。動ける駒がひとつ増えること、敵の攻撃になる的がひとつ増えることです。デメリットは、その成功率と消費MPです。MPを消費した上、仲間ひとり1ターンを消費した挙句、仲間を生き返すことができない、というのはリスクが大きすぎます」

→ 「雨降ってるときに携帯を見てて画面に水滴がつく事は気にかけるけど、本当に気にかけるべきは文字盤のほうなんだよね。大事なことを見落とすってのはそういうことなのよ」

→ 「もし愛と萌えの境界を画定できたら、言い替えれば「他者」と「キャラ」の境界を画定できたら、哲学史に残ると思うよ」

→ 「成功を求めるなら、機会をどう増やすかを考える事と、機会の場に少しでも長く立てるように物資を用意する事」

→ 「イメージとイメージ、記号と記号との結びつけ方、関係させ方が、いままでにみたこともないようなものであること。さらに、それがたんなる新奇な、珍奇な結びつきの効果を狙ったものではなく、それが産出される原理や装置が(それがどのようなものなのかは掴み切れないとしても)確かに存在し、作動していると感じられること。そして、その装置の作動の向こう側に、(「現実」や「現在」に似ているとか、もっともらしいとか、そういうこととはまったく別の)あるリアリティや必然性が感じられること。つまり、その装置の先に、そのような装置の内部を実際に生きている確かな存在の核のようなものが感じられること。そのような時、人はそこに、あたらしい作品、あたらしい作家の存在を感じるのだ」

→ 「極貧から血のにじむような思いで這い上がったチャンピオン、元極道だけど更正して男の生き様を物静かに見せてくれるチャンピオン、そういった余計なもんをリングに持ち込むのと一緒だろうと。なんていうかそれだけで、ただ普通の暮らしをしてきた才能だけがずば抜けてあるチャンピオンが負けに傾いてしまうような、そんな余計なもん」

→ 「あの「どこにも救いがない」感じが。ただディスプレーのなかに真正の夏があって、その夏は悲しい夏であり、それゆえに絶対的に透明度の高い空の青です。現実のすべてが無価値であるという以上に、すべては自分を攻撃するものであるとしか思えなかった。その反面で、ひとりきりで見上げた空の青さや空気の透明さは異常なほどで、雑草を揺らす程度のわずかな風のそよぎですら、ディスプレーのなかの「あの夏」から遠くここまで届いたものの残滓であるように思えた」