世界は称賛に値する

日記を書きます

日曜日の始まり

▼▼侮蔑あんてー、とかねえ。あるよねえ、あるよなあ、って思った。誰かに「嫌い」とか言われた時に、いや別にオマエみたいな下賤な奴に嫌われてもどうでもよいし……、的な心理をわりと欺瞞的に働かせて、己の精神を護ってしまうような動きが──覆ってしまうような動きが、やっぱりままある。微塵も好きじゃない!のに、明確に意識せぬままに頼ってしまうことがあって、有効すぎて捨てられないのだなあ、と反省する。した。おとなになったら消えるんだろう、とか漠然と昔は思っていたのだけどなあ。全然駄目だ。でもまあよい。消そう。消滅はさせられないにせよ、減らしていくよ、って思う。減らしようがないとか思えない。無理矢理遠ざけて見下して耳に届かないようにしてもねえ、意義を見出すのは難しいですよ、って話だ。相手が劣っているように見えることを理由に相手の話を軽視するのは駄目でしょう? っていう話だ。初心者の言葉が意外と的確かもだ。

昨日のニュースサイトー(じぶんあて)

→ 「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、泥をかき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。それに、これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?」

→ 「つまり、まったく同じ味の料理が、ある日突然油抜きになると、最初はかわらずおいしいけど、段々美味しくなくなっていく、ということですよ!同じ味なのに!すごい。この話は、価値相対主義、というか美味しさ相対主義を否定する、美味しさ絶対主義的な文章なのにすごい納得できる。炒め物が美味しいのは油が入ってるから!」

→ 「数学の抽象化も、計算という全体像を把握するために必要な抽象化ではないかと思う。この全体像を把握する目的には、絶対的に抽象化が必要だが、その目的を持たなければ、抽象化は必要ないとも言える。文学や芸術の創作の世界においては、創作が目的なら、抽象化は全く必要ないだろう。具体に即して思考を展開すればいいと思う。だが、芸術を芸術として「芸術論」を展開したいと思ったら、芸術の全体像をつかむ目的をたてなければならない」

→ 「そう、この話に登場する人はみな、主人公ルシウスもローマ市民もハドリアヌス帝も日本の庶民も野生のニホンザルも、そして何より作者自身も、誰もが真剣に風呂を愛し、求めているのです。古代ローマと現代日本の風呂文化を丁寧に描き対比する事による、ものごとの価値の再発見効果もあいまって、読めば風呂への知識と愛情がたいそう深まることでありましょう! 一読して衝撃的におもしろく、再読して味わい深い傑作。ちょうオススメ」