世界は称賛に値する

日記を書きます

土曜日の始まり(圧迫と連動の土曜日)

▼▼縛りや殻や圧迫をあえて活かしてしまう道、っていうのがあると思っていて、抵抗も邪魔も無理もまるでない──習慣的な姿では、辿り着けないところへ、導いて、辿り着かせてくれることがある。縛りがむしろ辿り着くための道標になってくれることがある。限界や制限があるほうが人の創造性は逆に膨らむのだ、とかいう話の奴だ。足掻いて立ち向かえる時には足掻いて立ち向かえるだけの熱意と集中がある、ってことと、障壁を軸にして連想するって行為がわりと巧く働いてくれたりすること、が、関係しているんだろう。
▼▼以後の予定について。勤務は午後12時からで、現時点であまり残り時間はない。試験勉強は帰ってきてからかなー。昨日の脅し的な予定組みは結局きっかり実行できた。同じように縛るのがよいかな? いや、無理させるのは違うか。可能かどうか危うい予定で縛るのは駄目だ。昨日は可能の中でサボらせないために縛ったのだ。というわけで今日は送別会があるのだった。なので、巧く時間が取れない可能性がある。というのを踏まえて予定組みをしよう。結局駄目で明日に不満足を残してしまうくらいなら「やらない」と決めてしまうほうがマシである。まあ朝食がこれからだから、朝食時間中と、あとは通勤時間を活かす、とは決めておこう。甘く見ても一時間程度は確保できるはずだ。
▼▼勤務面では? 報告と会議をまとめておかないと駄目、って程度の締め切りが目前にはある。終わらせてしまおう。時間は? 三時間あれば余裕だけど一時間で終わらせるように進めようかな。羅列的に書き出してまとめることを面倒がらなければ一時間で終わらせられるのは間違いないだろう。なのでつまり、面倒がる可能性が高いってことだ。敗北条件はそこになるだろう。敗北条件をいかに潰すか、避けるよう算段するか、が、問題解決の鍵になるんじゃないかな? 羅列してみるための時間を取ったほうが良いけど、では今から始めよう、と思って気を引き締めると、逆に、面倒の襲撃余地を残してしまうのではないか、って雰囲気はある。あくまで張り詰めすぎず意識しすぎず始めてしまうのがよい。巧くいくかなー。静かになだらかに時間を取って、出し抜けに始めさせよう。
▼▼っていうか。締め切りとか行動内容とか明確なことだけやっていても駄目なんだってば。ほんとどうするよー。整理し直そうぜ? けれど、整理し直そうよ、と幾度となく反省して、整理し直してみたけど、結局巧くいってない。巧く回っていないと思う。問題を拡散させず集中させよ、でないと進んでゆけない道があるだろ、とか最近少し考えているがそれがこれだろう。構えや視線が不安定なので足踏みしているのだ。軸を定める、っていうことを改めてやってみたらどうかなー? 始める? どうやって? 些細な改革案が多少はあるでしょう? という些細な改革案を煮詰めていって「抜本的なところまで手を加える案」を紡げないだろうか? というか、現状の手持ちの案から少しずつ問題を抽出して、抽出しながら動くしかないだろ。完璧なる計画待ち、が駄目なんだと思うなあ。
▼▼読書は、どうしよう。難しいな。試験勉強するなら読書は無理かな。最近読んでいるのは『自分の考えをまとめるノート』で、図解ってことに関しては、かなりよい着想でまとめられていると思う。要素について、因果関係や順序関係、重複するか、三項目以上か以下か、定量化できるか、で区分して整理している。という整理がかなり素敵では? 無論完璧とまでは言わないけれど……。別の視線を使って発想を変えてみると、別種の切り口が発見できましたよ、って可能性はある。けど、現時点でかなりわかりやすいのは間違いないから、瞬発性や学習効率を考えたら、いくらでも活かしようがあるだろう。
▼▼想像以上に文章が長くなるなー。好ましくないような気もする。短くまとめる術も学ぼうかな。というか、文字数制限の中で頑張るみたいな心地が自分は少なすぎる。まあ考えていこう。以下は「昨日出逢えて記録しておきたくなった言葉の備忘録」です。

■以下、独りよがりなニュースサイト的お気に入り

→ 「ジムに一歩足を踏み入れたら、その瞬間から理想の自分として振る舞うことだ。その自覚が苦しいトレーニングを支えてくれる」
→ 「ダブスタとかって言うけど、自我からすればそんなの当たり前だよって話なんですよ。自分が他人を批判したり否定するのは気持ちいいことだけど、自分がそれをされるのは嫌だと思う。これのどこにもおかしさはない。限りなく自然な欲求だと思う。ただ、それを何の遠慮もなく実行したら他人からは嫌われるだろうし、傷つく人もいる。だから、嫌われたくなかったり、傷つけたくないという思いがあれば、基本的にはそれをしないという規範ができる。それだって自分の欲求や必要に基づいて選択されていることであって、他人が自分を差し置いて無条件に大事だからではない」
→ 「ところがねー、あれは最初は「Kanon」っていう作品だったと思うんですけど、この構造が完全に逆転した作品が現れたんですよね。俺が欲しかった「結果」のものを先にえんえんと提示してくれるっていう。そんで俺は気づいたわけですよ。ひょっとして俺にとって物語(この場合はごく狭義で、波乱万丈のストーリーくらいに思ってください)って必要なかったんじゃないかって。欲しかったのは「人間」であり、その人間の代替物としてのキャラクターであり、それらが生きる「ここではない場所」そのものだったんじゃないか、って。別に超人とかいなくてもいいし、創世の秘密とかいらないし、女の子いればいいし、ぬるい日常とかあればそれでいいかな、的な」
→ 「それが嫌いな人たちの意見に「人が死にゃ感動するのかよおまえら」ってのをよく見かけたんですけど、馬鹿だなあ、人が死ねば感動するんですよ。実際に生きてきた時間のなかで「幸福である」といういかなる実感も得られなかった人は「人を失う」ことでしか、その人の存在の重要さを計ることができないんですよ。わからないんだもの。すべての人間が好きでない人には。一緒にいて幸福だとか。大好きとか愛してるとか。そんなもん知らねーんだよ。人と人が一緒にいて発生する「ぬくもり」みたいなものすべてにリアリティがない」
→ 『感動の重力から自由になれ、いったんその感動は伝達不能と思ってあきらめろ。するとヨソから書く契機がやってくる。それは実は「書けない」という抵抗や、間違いのような、一種の妨害者のようなものだと著者はいう。書けないで苦しむと、自分自身のなかではなくて、外から思いもつかぬ方向からゴミが降ってくる。それにぶちあたっていくべきだと言っている」