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日記を書きます

なぜ自己欺瞞を指摘したくなるのか

▼いわゆる『自己欺瞞』が嫌いだ。許容できない。というよりは、許容したくない。許容したくない、と思ってしまっているのがわかる。こいつ嘘ついてんなあ――自分自身すら騙してるね、とか考えてしまうと、なぜかその欺瞞を暴きたくなってしまうのだ。なぜなのだろうか、と考えていた。と同時に、思いついたこともあった。実際の問題として『自己欺瞞を指摘したがる人』は一定数いるように思える――だとするならばそういった人間に共通するものはなんなのだろうか――むしろなにが『自己欺瞞を指摘する』動機になりうるのだろうか、というようなことであった。▼観察する限りでは、他人のある行動や言説に対して「君のそれはもしや自己欺瞞なんじゃないか」と指摘する人、は、大抵『賢い人』のように思える。自己欺瞞を指摘する人は賢そうな人ばかりだなあ、なんて思えるような事例ばかり見てきた印象があるのだ。賢くないと欺瞞の存在に気づけない、か、欺瞞に気づける人を賢いと判断している、の、どちらかなのだとは思う。どちらにせよ、賢さというもの、と、欺瞞に気づくこと、に、なんらかの関係がある、と私が感じているのは間違いないらしい。▼相手の自己欺瞞を指摘する、と表現されるような行動が、実際に実行へ移されるとき、前提にあるのは、こちらは欺瞞の存在に気づいているが、そちらは欺瞞の存在に気づいていない、という判断であるはずだ。なんてことを、前提としてまずは考えていた。最初にそういった判断があって、続いてそういった判断に感情が反応を起こして、結果、相手に対してそれを指摘してしまいたくなるような気持ちがどこかから湧き起こってくる、というような状態を、欺瞞指摘の基本形として想定してみたわけである。