世界は称賛に値する

日記を書きます

レヴィナス入門(熊野純彦)P.113

レヴィナス入門 (ちくま新書)

レヴィナス入門 (ちくま新書)

《90点》

 ことがらを、べつの観点からとらえかえしてみよう。欲求とその満足という観点、〈同〉と〈他〉という観点から、である。
 身体は傷つきやすい皮膚で覆われ、ほんのすこしのことで傷を負ってしまう。身体とはそれ自体としてはひとつの欠如ではないだろうか。じっさい身体として存在していることで私は、いくつもの必要(プワゾン)に、たとえば衣服や住居の必要に迫られる。裸形の身体は暑さや寒さに曝されているからだ。欠如としての身体はまた、飢え乾く。身体である私は、こうしてさまざまな「欲求(プワゾン)」をいだくことになる。
 レヴィナスがいうとおり、だから、享受の歓びは「渇きをおぼえていることに由来する。享受とは癒しなのである」(『全体性と無限』)。身体こそが欠如を抱える。身体こそが欠如の充足を、つまり欲求の満足を享受する。われをわすれて清流を掬びとり、果実にむしゃぶりつくとき、ひとは水の冷たさ、果肉の柔らかさそのものとなっていよう、世界のうちに存在するとは、欲求への「真摯さ」である。水を飲み干すときにこそ、ひとは「世界を真摯に受け止める」(『存在することから存在するものへ』)。それはひとときの「自己の忘却」(『時間と他者』)である。
 世界は、こうして私の「糧」であり、「糧を消費することが生の糧である」(『全体性と無限』)。欠如を充足させること(空腹を満たすこと)、欲求を満足させることは、しかし他方では、世界の独立性(〈私〉にとっての外部性)をいったんは否定することである。〈他なるもの〉としての世界こそが、たしかに私の欲望をそそる。だが、欲求が充足されたとき、〈他〉である世界はすでに消滅し、世界の一部が〈私のもの〉となっている。つまり〈同〉と化している。そのかぎりで、「欲求が〈同〉の最初の運動なのである」(同)。